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菊地成孔+大谷能生「東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編」

東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編

東京大学のアルバート・アイラー―東大ジャズ講義録・歴史編

 この本はすごく面白かった!
 ジャズがなぜ即興を目指したのか?、なぜマイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』が偉大なのか?、などなどジャズについての様々な疑問がシュワーっと融けていく爽快感がありました。

 この本は、東大で開講された両著者による講義録で、文体も講義でしゃべっている口調そのものといった感じです。最初、あまりの砕けた文体に少し躊躇するかもしれませんが、その内容の明快さと鋭さで、全く気にならなくなってしまいました。

 この講義のタイトルは「十二音平均律→バークリー・メソッド→MIDIを経由する近・現代商業音楽史」なのだそうです。最初見たときは何のことやらさっぱり分かりませんが、読み進めていくうちに、この3つのキーワードがこの講義の鍵であることがはっきりしてきます。

 「平均律」というのは、西欧音楽の中で18世紀半ばから一般的に使われるようになった調律の仕方で、「ドからその上のドまでのあいだをスパっと十二に割って、等しい幅を持った十二個の音程でオクターヴが構成されるようにする」やり方で、ピアノの調律のあり方がその典型です。西欧音楽はこのシステムによっていわば記号化・標準化され、再現可能性が高まることになったというわけです。

 それから、「バークリー・メソッド」についてですが、これはバークリー音楽院というところで教えられ始めた商業音楽を制作するためのメソッドのことだそうで、「平均律」の次に来る音楽の記号化の第二段階に当たるものです。このメソッドは、「およそ二〇〇年間にわたって西欧で発展させられてきたさまざまな和声や旋律のヴァリエーションを、相当シンプルな形に記号化・数値化して、手っ取り早く使えるような形で教える、というような発想」だそうで、世界中で大流行したとのことです。何が画期的かといえば、「コード・シンボル」、つまり和声をシンボルとして処理する方法を体系化して教えることに成功したという点です。

 これがジャズとどう関係するかといえば、第二次世界大戦中に生まれてきた「ビバップ」(又は「バップ」)と呼ばれるジャズとバークリー的な音楽の分析体系が親和性を持っていたという点です。

 つまり、「ビバップ」というジャズのスタイルは、黒人を中心として、ストリートで自然発生的に生まれてきた音楽ですが、それがバークリー音楽院という教室で教えられている理論と奇跡的な出会いを果たしたところに、重要なポイントがあるわけで、このことがジャズを「モダン・ジャズ」へと導いたわけです。

 この「ビバップ」は、従来のジャズのスタイルであった白人中心の「スウィング・ミュージック」を「プレ・モダン」の領域に押し込めて、黒人たちが自分たちの音楽的歴史を再構築していくという運動だったと、著者は指摘しています。

「黒人ミュージシャンたちは「ビバップ」っていう音楽的革命を手掛かりに、自分たちに固有の音楽性っていうものをさらに強く伸ばそうとする。アメリカの音楽的メイン・ストリーム層は、そういった動きを受けて、そこで生まれた黒人的要素を自分たちの音楽の側に上手いこと回収しようと試みる。」(p18)

 この「ビバップ」の演奏というのは、大変理論的にできており、バークリー・メソッドの教育を受けると、誰でもある程度は「モダン・ジャズ」を演奏できるようになるのだそうです。「コード・シンボル」を見ればパッと4声の和音を弾くことができるというわけです。そして、「コード・シンボル」の解釈は演奏者に大きく委ねられている、つまり、4つの音さえ守っていれば、どの音を下にしてどの音を上に持ってくるかなどは、演奏者が自由に選択できるのだそうです。
著者たちは次のように述べています。

「曲を一旦バラバラに解体して、で、旋律とコード進行って要素に抽象化・分割して把握し、演奏していく。こうしたやり方をぐーっと推し進めることによって、ビバップっていう音楽は、それまでのアメリカのポピュラー音楽にはあり得なかったようなサウンドを作りだしていったんです。」(p44)

 そして、こうした「ビバップ」の特徴として、次の点を挙げています。要約すると、

①音楽のゲーム化、スポーツ化
②演奏時間の長時間化→タイム感覚の変化
③演奏技術の極端な高度化
④各楽器間のヒエラルキーの崩壊、平等化、小編成化

 「ビバップ」はアドリブ部分だけで曲を成立させようとした音楽で、演奏が始まってしまえば、後は各プレイヤーの即興に委ねられることになるわけです。曲の終わりも予め決められているわけではなく、演奏時間は長時間化します。そして、各プレイヤーは演奏を競い合うようになるので、演奏技術も高度化していきます。そして、全ての楽器がソロを取るので、楽器間のヒエラルキーもなくなる。

 こうした新しい音楽スタイルを、第二次世界大戦が終わる頃にアフリカン・アメリカ人の若者たちが作り上げたわけです。

 彼らは、戦争中に兵役にも就かなかった不良たちでした。この点は、戦地に赴いて演奏活動を展開したグレンミラーを始めとするスウィング・ミュージックが戦争に協力していたのと極めて対照的な点も興味深い話です。

 こうして始まった「ビバップ」は、50年代に入ると「モダン・ジャズ」と呼ばれるようになります。そしてさらに、白人たちが演奏する場合には「クール・ジャズ」と呼ばれるようになります。「クール・ジャズ」というのは、「ビバップ」からアングラ臭を抜いてリラックスした雰囲気を前面に押し出そうとしたネーミングです。正に「マス・メディアのイメージ戦略」(p73)というわけです。

 他方、こうした「クール」な路線に対抗して、「ハード・バップ」という流れも生まれます。ホットでハードな演奏を前面に押し出したスタイルですが、これは、白人に向けのソフトでお洒落なサウンドとして押し込められた「モダン・ジャズ」に苛立った黒人ミュージシャンたちによる反撃だと著者たちは述べています。

 そして、こうした「ビバップ」の代表格であったチャーリー・パーカーが1955年に亡くなると、「モダン・ジャズ」の最初のピークが訪れますが、50年代の終わりの1959年という年に、「モダン・ジャズ」に大きな転機が訪れます。マイルス・デイヴィスの『Kind of Blue』の出現です。このアルバムのどこに意義があるかというと、「モード技法」を確立したという点にあるわけです。つまり、「「コード進行」っていう考え方自体にNOを突きつけることに成功したアルバム」(p135)がこの『Kind of Blue』だったというわけです。

Kind of Blue

Kind of Blue

 この時期、「コード進行」の高速化・複雑化を極限にまで推し進めたコルトレーンとは極めて対照的です。

 ちなみに、同じ時期、やはりコード進行がない演奏をオーネット・コールマンが行い、侃々諤々の議論を巻き起こしていることも、興味深い点です。

 さて、こうして「モード技法」が成功を収めたことによって、「モダン・ジャズは、アメリカ白人的な音楽を母体にすることをやめて、全く独自のサウンドを響かせることができるようになっていく」(p137)ことになり、ここに「モード技法」の画期的な意味があるのです。

 こうした変化の中、バークリー音楽院はもはや対応することができなくなっていき、ジャズと歩を同じくすることを放棄することになります。

 マイルス・デイヴィスは、60年代に入ると、エレクトリック楽器によるサウンドの導入を試みるようになります。この「電化」というファクターには音の歪みが伴い、コードによる音楽とは相容れないものであり、この時点でモダン・ジャズは決定的にバークリー的な音楽環境から離脱することになってと著者らは指摘します。

 やがてマイルス・デイヴィスは、70年代に一時引退します。そして、帝王亡き後、ジャズ界にはクロスオーヴァーフュージョンといった時代が到来することになります。黒人的になりすぎていた流れを白人側にも受け入れられやすくデザインされるようになるわけです。

 そして、1981年にマイルス・デイヴィスが再び復帰しますが、80年代には「MIDI」が登場します。これは、「音楽に使われる全ての要素を数値化・パラメーションして処理しようという、記号化の極限にあるような発想と運動」(p227−8)、「八〇年代が始まる瞬間に起こった、音楽を記号化して管理しようと試みる新たな運動」(p228)です。これは、「五線譜へのハイパーな先祖帰り」(p230)というわけです。

「七〇年代に発達した音響素材の拡大に対して、ポップス業界は「MIDI」っていう強力なシステムをぶつけることによって上手くそれを回収する作業に成功したわけなんだけど、ジャズ界は新しいシステムっていうものを構築するってこと自体をやめてさ、過去の武器庫を整理したり、ソフィスティケイションしたりするって作業に向かったわけです。」(p231)

 以上、本書をざっと眺めたわけですが、読み進めるたびに新鮮な驚きの連続でした。ジャズを聴き始めた人が誰しも感じるように、ジャズの中にはメロディラインの分かりやすいものから、一度聞いただけでは何がよいのかが分からないものまで、多種多様なものが含まれているわけです。私はかねがね、一体どういう脈絡でこんな多様な音楽が「ジャズ」というジャンルで括られているのだろう、と疑問に感じてきたわけですが、この本を読み、そうしたモヤモヤがパッと吹き飛び、急にジャズに対する視野が開けたような気がしました。

 そして、何より強く感じたのは、ジャズというのは、黒人というアメリカ社会でいわば虐げられてきた人種の白人に対する葛藤の中で育まれてきた音楽だという視点です。白人の伝統的な音楽環境である「コード」からいかに脱却し、自分たちの真の音楽を確立していくか、という黒人ミュージシャンたちの熾烈な闘いの血と涙の結晶がモダン・ジャズなのだと言っても過言ではないでしょう。

 この本を読む前と読んだ後では、同じジャズを聴くにしても、全く違ったものとして聞こえてきます。

 ジャズに関心のある多くの方々に是非読んでもらいたい一冊です。