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「沈黙-サイレンスー」★★★★☆

chinmoku.jp

マーティン・スコセッシ監督の渾身の作品です。原作は遠藤周作の小説ですが、原作を読まずに映画を鑑賞しましたので、迫害されても頑なに信仰を守る宣教師を称える話くらいに思って見たのですが、かなり深遠なメッセージ性を孕んだ素晴らしい作品でした。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

17世紀の江戸時代初期、日本でキリスト教の布教を行っていたフェレイラ神父の消息が途絶えたことから、ポルトガルの2人の宣教師、ロドリゴとガルペが日本に派遣されることになった。2人の宣教師は、マカオで出会った日本人のキリシタンのキチジローの案内で日本に上陸する。

当時は激しいキリシタン狩りが行われ、ロドリゴとガルペは古い小屋に隠れていたが、2人の噂を聞いたキリシタンの村人たちがやってきて、2人は布教活動を行う。

やがて、長崎奉行の井上筑後守が村にやってきて、踏み絵を躊躇した村人たちを処刑する。2人は難を逃れたが、ロドリゴとガルペは分かれて行動することにする。

ところが、ロドリゴはキチジローに騙されて井上筑後守に捕らえられてしまう。井上筑後守はロドリゴを棄教させるため、日本ではキリスト教は根付かないことをロドリゴに説得しようと試みるが、ロドリゴは頑として棄教を受け入れない。

そうこうしているうちに、多くのキリシタン農民たちが踏み絵を受け入れずに命を落としていく。他方、多くの民衆たちはロドリゴに激しい非難の態度をぶつける。

ロドリゴは井上筑後守の計らいで、ついにフェレイラ神父に面会することになる。しかし、フェレイラは既にキリスト教を棄教し、仏教の寺で日本のために天文学などの勉強をしていたのだった。ロドリゴは当然のことながら大きな衝撃を受ける。

ロドリゴは、多くの民衆が自分が棄教しないことで拷問を受けている状況に耐え切れず、ついに踏み絵を受け入れる。

その後ロドリゴはフェレイラと共に、キリスト教関係の物品が輸入されないように監視する任務に就く。そして、江戸で未亡人と結婚し、穏やかに生涯を終えた。棺に納められたロドリゴの遺体の手には、キリスト像が握られていた。。。


映画『沈黙-サイレンス-』アメリカ版予告編

 

本作品は、タイトルに象徴されるように、キリストの神の「沈黙」が大きなテーマであるのでしょうが、私は、井上筑後守とロドリゴのやりとりに注目させられました。両者のやりとりがなかなか意味深に描かれており、私の印象では、どちらかというと井上筑後守の主張がやや好意的に描かれていたように思います。

つまり、キリスト教の普遍性を頑なに信じ込み、キリスト教が日本でも浸透すると信じ込んでいるロドリゴと、日本の土壌を「沼」に喩え、キリスト教が日本の風土に根付かないと主張する井上筑後守の論戦を見ると、井上筑後守にかなり分があるように描かれているような印象を受けました。

 

私たちが中学や高校で習うキリシタン迫害は、どちらかといえば、キリスト教に不寛容な江戸幕府という文脈だったような気がしますが、外国人のスコセッシ監督がこうした描き方をすることに、大きな感銘を受けました。

 

宗教の問題は、今日のトランプ政権のイスラム国家に対する強硬姿勢にも表れているとおり、いつの時代においても難しい課題です。ただ一つ言えることは、ある宗教があまりに普遍性を強調し、不寛容に他人に押し付けようとすると、熾烈な争いを生む原因となるということです。

 

日本社会は、仏教を始めとする異国の神々を古来の八百万の神と巧みに融合させながら、宗教的な調和を維持してきました。そうした神々が民衆に受け入れられていたところに、突如としてキリスト教がやってきて、他の神々を否定するような布教を行えば、社会の混乱につながりかねません。為政者たちがそうした宗教が入ってくることを過度に警戒するのは当然でしょう。

 

だから、この作品におけるスコセッシ監督の描き方は極めてすとんと落ちました。作品には残酷な拷問や処刑のシーンがいっぱい登場しますが、それはそれで仕方がありません。しかし、そうした残酷なシーンにもかかわらず、監督の伝えたかったメッセージは、当時の江戸幕府の残酷さではなかったように思います。

 

今日のイスラムを巡る状況も含め、いろいろと考えさせられる作品でした。