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池澤夏樹「きみのためのバラ」

きみのためのバラ

きみのためのバラ

 かつて「スティル・ライフ」で芥川賞を受賞された池澤夏樹氏の短編集です。

 世界中から集められた題材を用いて、その土地土地の因習を交えながら繰り広げられる七不思議的な物語には、否応なく引きずり込まれる魔力が秘められています。

 1つめの「都市生活」は、時間を間違えたために帰りの飛行機に乗り損ね、やむを得ず宿泊した土地で偶々入ったレストランで言葉を交わした女性から、母親が自分の金を持って男と姿をくらましてしまったという話を聞かされた、という話。

 2つめの「レギャンの花嫁」は、バリ島で出会った美人の日本人が素敵な現地人と結婚するという幸せ絶頂の時に、相手の男が急死してしまうという話。

 3つめの「連夜」は、大学を卒業して就職できずに沖縄に行き、病院のアルバイトをしていた男が、病院で出会った年上の女医から声をかけられ、10日間続けて逢瀬を楽しむという話。

 4つめの「レンタションのはじまり」は、ブラジルの奥地にひっそりと暮らす「逃げる人々」の間に伝わる「ンクンレ」という言葉の話。その言葉を聴くと誰もが波立つ心が穏やかに静かになってしまう。だから「逃げる人々」は争う気持ちが生じてもすぐに消えてしまうので、貧しい生活を送っているが、幸せな生活を送っている。そして、それは世界中の人々に広まっていき、世界から争いごとがなくなったという話。

 5つめの「ヘルシンキ」は、ロシア人女性と結婚した日本人男性の話で、2人はそれぞれの母国への思いを捨てきれずにやがて別れてしまい、2人の間にできた娘がその間で無邪気にそり遊びをするという話。

 6つめの「人生の広場」は、伯母の残した財産でパリでフラヌールとして暮らす日本人の話。

 7つめの「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」は、小さい頃から父親に暴力を振るわれてきた少年が、父親の友人とともにカナダに旅をする話。泊まったコテージの女主人がこぼしたコーヒー豆を拾い集めている時に、自分が幼少時に父親に本を部屋から投げ捨てられ、それを広い集めている光景を思い出す。
 それから最後に、本書のタイトルでもある「きみのためのバラ」。テロへの警戒が厳しい折、ある電車に乗った主人公は、一緒にいた妻に引っ張られて別の車両へと移動させられる。妻は、持ち主の分からない鞄から離れた方がよいと判断したのだった。結果は何も起こらなかったが、主人公はこの経験からある過去の光景が蘇ってきた。それは主人公がまだ若かった頃、メキシコのある駅のホームで出会った美しい少女の姿を追って車両を移動し、バラを渡したときの光景だった。同じ列車の中での車両の移動であるにもかかわらず、その心境の違いは天と地ほどの差があった。


 いずれの短編も面白く、やはりタイトルとなっている最後の「きみのためのバラ」は、昨今のテロリスへの過度な警戒と偏見を、ほろ苦い恋愛と絡めてうまく表現しているものであり、よくできた小説となっています。

 中でも私が一番印象に残ったのは「連夜」です。

 この短編は、先に御紹介したとおり、沖縄の病院でアルバイトをしていた男が、病院で出会った年上の女医から声をかけられ、10日間続けて取り憑かれたように逢瀬を楽しむという話です。離婚経験のあるこの女医は、齊藤君というこの男に急激に惹かれ、自分から関係を求めて、2人は10日間の間激しく交わることになるのですが、ある日この女医はピタッと欲望が冷めてしまい、2人の関係はそれっきりになってしまいます。
 やがて、齊藤は病院をやめて蘭をバイオで育てるという計画を立てている会社に就職し、結婚もすることになるのですが、ある日、女医から手紙が届きます。そこに書かれていたのは、次のような話でした。
 女医は激しい情欲が冷めた後、ユタという霊的コンサルタントのところに相談に行ったのですが、そこで聞かされたのは、2人は誰かに身体を使われたらしいということ、しかもそれは首里のお城に縁のある高貴な人だというのです。
 女医が琉歌の全集を読んでいくと、琉球の王様の娘が花を持ってくる花園係に当てた歌を発見します。つまり、この王女が2人の身体を借りて悦楽を楽しんでいたというわけです。
 しかも、この花園係は処刑され、それを悲しんだ王女も身を投げて死んだという・・・。


 つまり、2人の激しい逢瀬の背後には歴史上の悲しい逸話があったというこの話、著者の壮大な想像力に思わずため息が出てしまいます。

 池澤夏樹氏の小説といえば、これまで、芥川受賞作である「スティル・ライフ」と、それから壮大な長編小説である「すばらしい新世界」を読んだことがありましたが、この短編集はそれらよりもはるかにスケールが大きく、奥が深いものとなっているような感じがします。

 世界を股にかけた奇譚集、という感じの本です。