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青木保「作家は移動する」

作家は移動する

作家は移動する

 ジョン・アーリが「近代的主体とは、始終移動している主体である」と述べているが、近代日本の文学者は諸外国の文学者と比べて、長らく移動することが少なかった。しかし、最近は現代日本の文学者が異文化・異地域・異国の経験者であり、その作品にそうした経験が反映されているということに気づき始めた。。。

 著者の青木保氏は、こうした問題意識から、移動を糧としている現代日本文学者たちをピックアップし、本書を記されています。

 まず最初に取り上げられているのは多和田葉子氏です。『旅をする裸の眼』では、ベトナムの女子高校生がヨーロッパへ行き、ベルリンからさまよい出て移動して歩く作品です。『容疑者の夜行列車』でも、作中の「あなた」は目まぐるしく旅をする。これらの作品で主人公たちは受け身の旅を重ねていく。多和田氏自身、ドイツに住みながら日本やヨーロッパ中を駆け回る生活を送っています。そうした中で、多和田氏は、新たな創造の可能性を求めて母語でない言葉を用いながら小説を書く「エクソフォン文学」を自ら実践しているわけです。

 次に取り上げられているのはリービ英雄氏。『ヘンリたけしレウィツキーの夏の紀行』は、ユダヤ系アメリカ人を父親に持ち、日本と中国、台湾、アメリカにまたがって生きる主人公の話です。『千々にくだけて』は、9・11でアメリカに入国できない主人公の話。松島と同様にバンクーバーの小島群も千々にくだけているが、それはNYの高層ビルがくだける光景と重なってくる。著者は、これらの作品に登場する主人公たちにとって、移動は逃走の手段であると捉えるとともに、移動と逃走の狭間にこそ意味の生じる可能性や文学的創造が宿る可能性が見出せるとしています。

 3人目は堀江敏幸。短篇『静かの海』で取り上げられる都会の中の小公園の短い時間の中で感じ取られるものこそ、移動と移動の「間」だと著者は捉えています。『郊外へ』はパリ郊外に住む日本人が郊外を中心に町を歩く話です。『河岸忘日抄』はセーヌ川と思われる川の川岸に繋留された平底船を借りて住む日本人の話。移動はしないが船で暮らすこと自体が主人公にとって移動の感覚を伴うものではないか。この作者がもたらしてくれる貴重なものは「移動による静謐」なのではないかと作者は述べています。

 4人目は宮内勝典氏。主人公がNYのスラム街の中で暮らす『グリニッジの光を離れて』、9・11の後、ベトナム戦争に抗議して焼身自殺した僧侶の痕跡を訪ねる『焼身』が取り上げられ、宮内氏の世界は移動の危険と誘惑に満ちていると著者は述べています。

 それから池澤夏樹氏。

「移動の作家というなら、現代日本で池澤夏樹氏ほどふさわしい人はいない。」

と著者は述べています。ネパールに風力発電を設置する仕事に携わるサラリーマンを描いた『すばらしい新世界』が取り上げられています。また、池澤氏がロレンス・ダレルに大きな影響を受けたと述べている『アレクサンドリアの風』をベースに、ダレル論が展開されます。そして、著者が最も重視するのが短篇集『きみのためのバラ』です。著者はとくに本の題名と同名の短篇を絶賛しています。この短篇は、パリ郊外から都心に向かう電車に乗った日本人中年夫婦が、車内で持ち主不明の鞄を見つけ、不審物ではないかと疑うのですが、そのとき、主人公の私の脳裏には、かつてアメリカからメキシコに入る際の列車で出会った魅力的な少女の記憶が鮮明に甦ってきます。

 さて、最後にいよいよ村上春樹氏が取り上げられます。『東京奇譚集』の中の『偶然の旅人』。ゲイの主人公が平日の朝のショッピング・モールで知り合った女性と知り合い、ある日、自分は乳癌の再検査を受ける予定であり、もし癌だったら手術を受けなくてはならないと告白され、その後、主人公は疎遠だった姉に電話をかけたところ、あさって乳癌の手術を受けて乳房を切除することを聞かされる、という話です。著者は村上氏の文学の一番の魅力は、「奇譚」が現実譚であってもおかしくないと感じさせるところにあると述べていますが、この見方には私も賛同します。

 ジョビンの曲の題名から取ったエッセイ集『使いみちのない風景』も取り上げられています。旅行による束の間の風景は、「住み移り」での風景が意識的に取り出せるのに対して、唐突に身勝手に出て来て戸惑わせるものであるが、この「使いみちのない風景」には創造を助ける要素があると村上氏は述べています。村上氏は走ることについて書いたエッセイがあるくらい移動と縁が深い作家でありますが、実は翻訳こそが村上氏にとっての究極の移動なのではないかと著者は述べています。

 以上、本書で取り上げられている順に追ってきましたが、現代の日本社会では亡命のような強制的・抑圧的な移動はなく、自由な意思の下で作家が移動し、文化の端境の中で魅力的な文学作品が生まれるという現象が生じていることが分かります。こうして見てみると、文化の交差点の中にこそ魅力あるものが生まれるのだ、という認識を一層強くさせられます。


 ところで、本書には最後に補章として『1Q84』についての評論が掲載されていますが、大変変わった切り口で分析されています。
 まず、ジャズのスタンダード・ナンバーである♪イッツ・オンリー・ア・ペイパームーンが通奏低音のように全編を流れており、そして、急所というべきところでそれが浮上するという指摘。この曲は本作品のエピグラムで引用されているほか、さきがけのリーダーを青豆が殺害する場面など要の箇所で登場します。

「・・・「1984」も「1Q84」も「愛」がなければ所詮それは「紙の月」に過ぎない・・・という、作品の中心的テーマがこの曲として流れていたことに思い当たるのだ。そして、読み終わったいま、天吾と青豆の「愛」がなければ、この物語は「空っぽ」の話にしかすぎないことに思い至る。」

という指摘は大変説得力があります。

 もう一つは「コード・ヒロイン」についての指摘。著者は本作品の中でも青豆という登場人物にとりわけ注目します。「コード・ヒロイン」というのは、ヘミングウェイの作品に現れる人物に特有のキャラクターを表す言葉として使われますが、ここに現代日本の人間像、求められている人物造形を感じてしまうと著者は述べています。

 これまで数々の『1Q84』についての論評が行われてきましたが、「イッツ・オンリー・ア・ペイパームーン」と「コード・ヒロイン」に着目した論評というのはお目にかかったことがありません。

 著者は文化人類学者であり、前文化庁長官でもある代表的な文化人ですが、著者の見識の広さに改めて感心させられてしまった一冊でした。