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映画、書評、ジャズなど

佐渡・新潟旅行記

旅行記

 この夏休みは、佐渡を中心に周遊するプランで過ごしました。

 佐渡はよほどのきっかけや用事がなければなかなか足を運ばない場所でしょう。佐渡金山は有名ですが、それ以外はこれといった観光地もありません。その“何もない”ところが佐渡のまた良い点だとも言えます。

 かつて太宰治が「佐渡」と題す短篇を著しています。太宰は新潟の高校で講演する機会があり、その足で佐渡に渡ったようですが、佐渡は死ぬほど淋しいところだと聞いて前から気がかりだったと述べています。しかし太宰は佐渡に向かう船の中、そして佐渡に着いてからも後悔の連続です。要は、何で佐渡なんかに来てしまったのだろう、という思いが随所に垣間見られます。そして、船上から佐渡の大きさを目の辺りにして、佐渡を「大陸」と称していますが、佐渡は島と言っても要はあまり内地と変わりないというのが太宰の印象だったようです。

十日町のアート

 新潟に向かう途中に、前から立ち寄りたかった新潟の十日町に寄りました。ここでは北川フラム氏が総合ディレクターを務める「大地の芸術祭」が3年ごとに開催されており、2000年に第1回が開催されて以来、5回開催されてきたおり、今ではアートによる地域興しの代名詞となっています。今年は隙間の年に当たりますが、いくつかのアートは展示されていますので、それなりに楽しめるのではないかとの期待をもって足を運びました。

 最初に足を運んだのはジェームズ・タレルの「光の館」でしたが、ここは夜から朝にかけては宿泊者がいるため、建物に向かう道が閉ざされており、朝は外から建物を見ることもできませんでした。仕方なく、そのすぐ側にある「グリーン・ヴィラ」へ向かいます。芝生の中に立体的な象形文字が描かれている作品です。

 次に向かったのは「絵本と木の実の美術館」です。

 ここは廃校となった学校の建物を活用して、様々な作品やアトラクションが展示されているところです。絵本作家の田島征三の手によるものですが、その絵本作品のタイトルにもなっている

「学校はカラッポにならない」

という標語が表すように、廃校でありながら魂が生き続けているという感覚を覚える作りとなっています。

 体育館にある数々のお化けのモニュメントは、外のつるべ落としとワイヤーでつながっており、定期的に水が落ちると、動くような仕掛けになっています。人のいない体育館の中で一晩中動き続けているのでしょうか。建物の中には学校で使われる人体模型など様々な用具が置かれており、訪れた子供たちが自由に遊べるようになっており、ちゃんと子供の気持ちを惹く仕掛けになっています。

 建物の中にはなかなか魅力的に見えるカフェも併設されていますが、今回は時間の関係で残念ながら利用できませんでした。

 その後「星峠の棚田」へ。高台から整然と構築された棚田を見下ろすことができます。晴れた日はさぞかし素晴らしい光景が広がったであろうことが想像できます。

 それから、オランダのMVRVDの作品「農舞台」へ。

 この建物にはレストランが併設されていますが、そこに入ると、川の対岸にイリヤ&エミリア・カバコフの作品「棚田」が一望できる席があり、最高のロケーションの中で食事をとることができます。食事も地元の食材をふんだんに使った素朴な料理がバイキング形式で楽しめ、大変クオリティの高いレストランという気がしました。

 カバコフの「棚田」は、上から標語がぶら下げられている光景が有名ですが、今回行った時は、稲作の場面に応じた彫刻が田んぼの中に点在しているという光景のみでした。この棚田は私有地であり、当初、地域全体が芸術祭に反対している中で、この田んぼにアートを作ることを説得するのは至難の業だったようです。結果的にはアーティストの日本の苛酷な農業に対する敬意が伝わり、了解がとれるわけですが、ロシアのアーティストと日本の農民の共感が芽生えたのだと北川氏や述べています。

 「農舞台」のすぐそばには草間彌生氏の作品「花咲ける妻有」があります。

 ちょっとした高台に原色が際立ちエロスを感じる作品がたたずんでいますが、周囲の素朴な色合いの風景の中にこうした原色を対比させることで、また周囲の風景の良さが浮かび上がってくるという構図になっているように思います。こうしたアートがなければこの風景の良さを考えることもなかったでしょうし、それこそがアートの持つ力だと思います。

 その後、イギリスのリチャード・ウィルソンの作品「日本に向けて北を定めよ」に立ち寄ります。

 田んぼに囲まれた一本道を進んでいくと、道を跨ぐ神社の鳥居があり、そのすぐ横にこの作品があります。何か宇宙からのレーダーを受け止めているかのような奇妙な方向を向いた形のオブジェです。この作品は、作者のロンドンにある自分の家を地軸に沿ってこの場所に持ってくると斜め逆さになるということを実寸大で表したのだそうです。そばには学校もあり、あまり違和感を感じない形で地域の風景に溶け込んでいるのが印象的でした。

 今回は時間の関係で、多くの作品を見ることができませんでしたが、何もないところに人を惹きつけるアイテムとして現代アートが極めて有効に機能していることがよく分かります。大地の芸術祭が開催されるまでは、おそらくこの地域が全国的に注目されることはあまりなかったでしょう。せいぜい良質の泉質で知られる松之山の温泉に注目が集まるくらいだったのではないかと思います。そうした地域に対して、老若男女を問わず、全国、ひいては世界から注目が集まるという意味で、現代アートは極めて大きな力を持っていると思います。これが地域の経済にどれだけ裨益しているかといえば、もしかすると大したことはないかもしれません。アートを見に来た人たちが必ずしも地元で滞在して宿泊するわけではありませんし、宿泊施設のキャパシティも限られているので、観光客がお金を落とすことにはつながっていないかもしれません。他方で金銭評価できない部分、例えば、地域のお年寄りを始めとする人たちに活気が戻ったり、外部からやってくる若者を始めとする人びととの交流を通じた楽しみという部分では、地域にとって極めて大きな意味を持つものだと思います。「絵本と木の実の美術館」でも多くの若者スタッフがいましたが、おそらくは外部からボランティア等で集まってきた人たちなのではないかと思います。そうした人たちが地域の人たちと触れ合うことの意味は大きいと思います。

 現代アートで地域を活性化させるという手法は、全国どこでも使える可能性があるのではないかと感じました。

佐渡

 いよいよフェリーに乗って佐渡へ渡ります。

 佐渡についてまず感じるのはその大きさです。島というと簡単にぐるっと一周できるようなサイズを想像してしまいますが、佐渡はかなりの時間をかけないと一周できません。
 太宰が小説の中で、船から佐渡を見た印象を次のように述べています。

「ひょいと前方の薄暗い海面をすかし眺めて、私は愕然(がくぜん)とした。実に、意外な発見をしたのだ。誇張では無く、恐怖の感をさえ覚えた。ぞっとしたのである。汽船の真直ぐに進み行く方向、はるか前方に、幽(かす)かに蒼(あお)く、大陸の影が見える。私は、いやなものを見たような気がした。見ない振りをした。けれども大陸の影は、たしかに水平線上に薄蒼く見えるのだ。満洲ではないかと思った。まさか、と直ぐに打ち消した。私の混乱は、クライマックスに達した。日本の内地ではないかと思った。それでは方角があべこべだ。朝鮮。まさか、とあわてて打ち消した。滅茶滅茶になった。能登半島。それかも知れぬと思った時に、背後の船室は、ざわめきはじめた。」

 太宰が佐渡の大きさに圧倒されている様子が窺えます。

 新潟と佐渡の間にはジェットフォイルという高速船が走っているので、今では1時間程度で渡ることが可能ですが、かつては内地から遠く離れていた印象があります。司馬遼太郎が「街道をゆく」の中で触れていますが、平安時代佐渡にも国司は置かれていたものの、海がこわくて実際には赴任していなかったとの記述があります。日本海の荒波に大きく揺れるフェリーに乗っていると、かつての平安時代国司の気持ちがよく分かります。鎌倉時代の武士でさえ、佐渡にはあまり渡ろうとしていなかったようです。

 佐渡はもともと流刑の地として知られていました。鎌倉時代に後鳥羽上皇とともに倒幕を企てた順徳上皇も25歳の時に佐渡に流され、21年間佐渡で暮らした後に佐渡の地で没しているようです。死因は、都に帰れる望みが絶えたことを思い、絶食して亡くなったそうです。都の華やかな生活を経験した後に佐渡に意図せず送られてきたわけですから、都に戻れないことが人生の終わりに等しい意味を持ったということは何となく想像できます。

二ツ亀・大野亀

 佐渡に着くとまず北に向かいます。司馬氏によれば、日本書紀の中で、佐渡の北方に粛慎(みしはせ)と呼ばれる人びとが上陸し、留まって捕魚などしているといった記述があるそうです。佐渡の人びとは彼らについて人でなく鬼であると言い、近づかなかったようです。司馬氏は粛慎は沿海州人だろうと推測していますが、その確たる根拠はないようです。佐渡の北方にはそうした人たちの流れを受け継いでいるのかもしれないなどと思いながら北へ向かいます。

 佐渡の北部は港から遠く離れていることもあり、その海岸は美しさを保っています。開拓されておらず、観光地化もされていない素のままなところが佐渡の大きな魅力でしょう。

 大野亀の岩は標高が167mもあり、上まで登ればさぞかし絶景だったでしょうが、今回は断念しました。

相川の美しい海と夕陽

 大野亀から西岸に沿って1時間ほど下っていくと、相川地区に着きます。ここはかつて佐渡奉行所があった場所で、かつての佐渡の中心部といっても良いでしょう。佐渡の最大の観光資源とも言うべき佐渡金山もすぐそばにあります。

 相川に着く前に、尖閣湾という岩場に囲まれた湾があります。ここはかつて映画「君の名は」のロケ地となったことをいまだに声高に宣伝しているところからしても昭和の感覚が溢れている景勝地なのですが、高台から見下ろす湾の風景や、湾を巡るボートからの光景はなかなかの見ものです。

 佐渡金山に向かう途中に「道遊の割戸」という山がぱっくりと2つに割れた光景が見られます。

 おそらく金の鉱脈を掘っていくうちにこのようないびつな堀り方になってしまったのでしょう。ところで金山ではどのような人たちが採掘に当たっていたのか。司馬氏によれば、それは「無宿人」だったそうです。つまり、江戸時代に戸籍がなく江戸に集まってきた人たちが佐渡の金山堀りに駆り出されていたわけです。例えば、農村の不良少年が戸籍から抜かれてしまい、やむなく江戸の町に出て行きたむろしていたのです。金山堀りの中でもっとも苛酷な作業は水替でした。掘っていくとわき出してくる地下水をくみ上げる作業ですが、地の底から地上までくみ出す作業は並大抵の苛酷さではなかったようです。司馬氏は、

江戸幕府は、同時代の地球上のいろんな政府にくらべ、ほめられるべき点も多い。しかし最大の汚点は、無宿人狩りをやっては、かれらを佐渡の水替人夫に送ったことである。」

と述べているほどです。無宿人は犯罪を犯したわけでもないのに幕府に捕らえられてこうした苛酷な作業に従事させられたという意味では江戸時代の悲劇の一面と言えるでしょう。司馬氏が「道遊の割戸」を見て強烈な不快感を示している気持ちもよく分かります。

 佐渡の金山の悲惨な歴史は置いておいて、七浦海岸の夕陽は圧巻です。西側の海に夕陽が見られる場所というのは日本列島では案外少ないわけですが、佐渡はきれいに海の中に太陽が吸い込まれていきます。

 さて、相川地区は「佐渡おけさ」という踊りがあります。これはもともと「相川おけさ」と呼ばれていたようで、佐渡金山の坑夫たちがおどっていた踊りと言われていたそうですが、現在は、九州の酒盛り唄が原型と言われているようです。

小木のたらい船など

 相川からさらに南に下ると小木と呼ばれる地区にたどり着きます。司馬氏によれば、かつて佐渡金山に送られた無宿人は小木で上陸させられ、金山まで運ばれたようで、この道はある意味で悲しい歴史を背負っている道だと言えるでしょう。

 小木の名物はたらい船です。とりわけ小木のとなりにある矢島・経島はおだやかな海の上から風光明媚な光景を眺めることができます。小回りがきき、女性でも簡単に操作できることから、かつてはサザエやアワビを捕るために使われていたそうです。

 ここには宿根木という古い街並みが保存されています。江戸時代は廻船業の集落として栄えたそうです。細い道が巡らされ、処狭しと家々が建ち並んでいます。それ自体は特に目を引く建造物等があるわけではありませんが、今でも現役で使用されている建造物も多く、実際に住んでいる人にとってはやや迷惑かもしれませんが、歩いているだけで癒されます。ここは佐渡の中でも比較的観光地化されたスポットです。

佐渡総括

 佐渡に滞在して感じたのは、佐渡では決して明るい雰囲気を感じることはなく、誤解をおそれず言えば、どことなく悲しい雰囲気が全体を覆っている感じです。内地との間を隔てる荒波の海、佐渡金山の悲しい歴史などが、こうした雰囲気の背景にあるのかもしれません。

 しかし、サザエや飛び魚などの海産物の豊富さからすれば、おそらくは食いっぱぐれることは少なかったのではないかと思います。そこら辺の海にちょっと潜ればいくらでもサザエが取れます。そして、米所としても有名で、おそらく食料には恵まれてきたのではないかと推測します。

 佐渡にはほかにも薪能などの文化もあるようですが、今回は時間切れということで、次回のお楽しみにしたいと思います。