映画、書評、ジャズなど

エドワード・ベラミー「顧りみれば」

顧りみれば (岩波文庫 赤 332-1)

顧りみれば (岩波文庫 赤 332-1)

 今時こんな本を読んでいる人はなかなかいないのではないかと思います。本書は「Looking Backward 2000-1887」というタイトルで1888年に初版が出版されたSF小説で、タイトルからも窺えるとおり、2000年の理想的世界を描いた物語です。邦訳は岩波文庫から1953年に出版されていますが、今ではなかなか手に入りにくい本となっています。

 19世紀末の富裕階級に属していたジュリアン・ウェストは、同じく富裕階級に属するイーディス・バーレットと結婚する目前だった。ウェストは2人の新居を建築中であったが、労働階級の人々のストライキによってその完成は遅れており、ウェストは労働階級を大いに憎んでいた。

 ある日ウェストは、いつものように自宅の地下室で医師によって催眠術をかけてもらい就寝したが、目が覚めるといつもと違った光景が広がっていた。目の前に立っていたのは医師のドクター・リートだった。そして、ウェストはリートから、そこが2000年の世界であることを告げられる。ウェストの家は就寝後に火事にあい、地下室だけがその後発見されなかったため、ウェストは113年間眠っていたのだった。

 2000年の世界では、ウェストが心底憎んでいた労働階級の問題は解決されていた。かつて資本家が担っていた責任はすべて国家が担っていた。すべての労働階級は国の厳格な管理の下で「産業隊」の一員として仕事をし、45歳になると除隊して労働から解放された。労働時間に差を付けることによって職業間の魅力が調整された。通貨によるあらゆる売買は消滅し、国家から与えられるクレジットで必要な物資は手にはいるようになっていた。金融機関も消滅していた。

 ウェストは当初こうした一連の仕組みに懐疑的であったが、やがてこの仕組みがかつて自分が属していた社会の仕組みに比べて、人々を幸福にするものだと実感するようになる。

 ある日ウェストは気がつくと19世紀末の世界に戻っていた。2000年の世界を見てきたウェストは、19世紀末の世界に大いに違和感を感じた。そこは地獄のような世界に思われた。ウェストは20世紀の世界の素晴らしさを周囲に伝えようとしたが、周囲から気狂い扱いされ、そこでウェストははっと目覚めた。19世紀末の世界に戻ったのは夢の中だったのだ。。。


 本書の解説によれば、ベラミーは1850年にマサチュセッツに生まれ、その後ドイツに留学し、帰国後は弁護士となった人物だそうです。そして19世紀末という時期はいわゆるユートピア小説が多数表れたとのことで、労働問題が深刻な課題として取り上げられたこの時期の特徴を表しています。本書は出版されるや大評判となり、2年目には35万部を売り尽くしたとのことです。ウィリアム・モリスは本書に刺激を受けて『ユートピアだより』を書いていますが、こちらは労働の喜びを強調した作品です。

ユートピアだより (岩波文庫 白 201-1)

ユートピアだより (岩波文庫 白 201-1)

 ベラミーの描いたユートピアははっきりとした共産主義です。国家がすべての労働や物資の移動を管理し、徹底的な平等が実現された世界です。こうした世界が維持不可能であることは、すでに歴史が実証しています。国家がすべての情報を収集した上で社会全体を管理することは不可能であり、かつそれはかえって非効率を招くからです。だから、現代人がこのベラミーの小説を読むと、大いに違和感を感じることは必然的な結果です。

 他方、オルダス・ハックスリーの『すばらしい新世界』は国家が社会を厳格に管理する未来世界の暗黒を描いた作品です。こちらはベラミーのアプローチとは正反対です。ベラミーと対照的にこの『すばらしい新世界』は未だに現代人に読み継がれているのは、その後の歴史的展開を踏まえれば、当然でしょう。

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

 では、今回なぜあえて『顧りみれば』を手にとって読んでみたかといえば、この作品が当時の人々の喝采を浴びたユートピア作品だからです。ユートピア作品と言えば、トマス・モアの『ユートピア』が代表作であることは間違いありませんが、例えば、戦後日本でも、「ドラえもん」や「鉄腕アトム」といった未来社会を描いた作品が多数登場しましたが、これらも一種のユートピア作品と言えるかもしれません。

 しかしながら、今日、未来の理想的世界を描いたユートピア作品はほとんど生み出されていません。このことは、今日の人々にとって、ユートピアを描くことがいかに困難になっているかを象徴しています。どんな理想的世界を描いたとしても、それは白々しく不毛な想像に過ぎないように見えてしまいます。

 こうした状況は先進文明社会にとって共通しているように思います。このことこそが、今日の先進文明社会の閉塞感を生み出しているように思えます。

 先に取り上げた玄田有史氏の『希望のつくり方』においても、最悪を想像することによって希望を見出せ、というメッセージしか発せられないのも、ユートピアが描けない社会状況と無縁でないように思います。
http://d.hatena.ne.jp/loisil-space/20101031/p1
 こうして見ると、フランシス・フクヤマ氏が『歴史の終わり』を書いたことが説得力を持ってしまうのですが、私は、今日の社会においても、ユートピアを描くだけの想像力が必要なのではないかと思っています。そして、そうした役割を最も担わなければならないのが、政治家なのだと思います。その政治家が「最小不幸社会」と言ってみたり、事業仕分けにのめり込んでいることこそ、社会の閉塞感を増長しているような気がします。

 現在、ユートピアの想像を最も担っているのは宗教なのかもしれませんが、ユートピアの想像を宗教に委ね過ぎることの弊害は、オウム事件などによって既に明らかでしょう。

 閉塞感を脱却するためには、一人一人がユートピアを想像してみる困難な努力が必要なのかもしれません。