映画、書評、ジャズなど

齋藤嘉臣「ジャズ・アンバサダーズ」

 

ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史 (講談社選書メチエ)

ジャズ・アンバサダーズ 「アメリカ」の音楽外交史 (講談社選書メチエ)

 

ジャズがアメリカを始めとする各国において、どのように利用され、受容されたかについて、幅広い文献に基づき記された本です。伝説的なジャズ・ミュージシャンたちが世界各国に送り込まれて、絶賛されたという内容だけでも、ジャズ・ファンとしては大変楽しめる内容ですが、ジャズと現代史をここまで学術的に結びつけて論じた研究はこれまで日本ではなかったように思いますので、画期的な研究だと思います。

 

本書からわかることは、アメリカ政府はジャズをアメリカニズムとして売り込もうとしているのに対し、実際にジャズを売り込むミュージシャンたち、あるいは、それを受け入れる外国のジャズ・ファンは、それぞれ別の思惑でアメリカのジャズを捉えていたということです。

 

 本書で強調されている点は、アメリカ政府はジャズを「アメリカ文化」「アメリカの音楽」として世界各国に売り込んだものの、実際、それは「抵抗」の象徴、さらには「反米」の意思表明媒体として受容されたという事実です。

 

もともとアメリカ国内でも、ジャズは共産主義によって利用されてきた面もあり、アメリカを代表する音楽というわけでは必ずしもなかったものの、文化コンプレックスがあるアメリカ政府として、ジャズをアメリカの音楽として世界に売り込む戦略を取り始め、いわゆる「ジャズ・アンバサダー」として多くのジャズ・ミュージシャンたちが世界各国に送り込まれたわけです。

しかし、受け入れる側は、ジャズをアメリカの音楽として受け入れたわけではありませんでした。むしろ、ジャズのアメリカ性を剥奪して現地化されたジャズを構築していったというのは興味深い点です。

そして、ジャズは、若者たちの間では、抵抗的な側面が強調されます。フランスでは“ザズー”と呼ばれた若者たちにとって、ジャズは抵抗の顕現でした。ドイツでは“スウィング・青年団”がジャズ・ファンによって結成されます。戦後のソ連でもジャズを愛する“スティリャーギ”と呼ばれる若者たちが現れます。

 

戦後になると、アメリカ政府は、ディジー・ガレスピーらをジャズ大使として世界各国に派遣します。ジャズ大使は各国で歓迎されますが、政府とミュージシャンの間で、人種問題を巡る軋轢が生じ始めます。そもそも黒人音楽が起源であるジャズを、アメリカの音楽として世界に売り込むことに対し、黒人ミュージシャンたちの間では不満があるのは自然なことでしょう。また、人種差別問題が解決していない中で、ジャズが自由や民主主義を象徴することには、矛盾が内在しているという見方もできます。

だから、1957年にリトルロック事件が起こると、ルイ・アームストロングは政府の対応に激怒し、ソ連公演の話を一蹴したとのことです。

 

こうした中、ジャズは時に「反米」として受容されます。フランスでは人種隔離に抗った黒人文化に由来するものとしてジャズが捉えられます。

 

このように、様々な受容のされ方が存在するところに、ジャズの面白さがあると思います。著者もジャズを“融通無碍”“ディアスポラ的”と称していますが、そのとおりだと思います。

「ジャズは融通無碍である。それは自由の象徴でありながら、未完の自由への衝動ともなる。自由な社会において、それは弾圧の対象であると同時に、抵抗と連帯をうながす媒体ともなる。ときに共産主義と近く、別のときには反共の機能を果たし、アメリカニズムを体現するかに見えて、反米の表明媒体ともなりうる。

 ジャズがアメリカで生まれ、いまなおアメリカの象徴であることは疑いない。それでも、ジャズはアメリカニズム を超克する。ポール・ギルロイの議論になぞらえば、多文化が混淆するアメリカ南部に起源をもちながら、アメリカの外に拡散する過程で辿った多様な経路が、ジャズを豊かにする。その誕生の瞬間からハイブリッドな文化であったジャズの姿は、じつにディアスポラ的なのである。」(P306-307)

 

それにしても、本書は丹念に膨大な文献を拾いながら、しっかりと学術的にジャズを捉えています。日本語の文献で、ここまできちんとジャズを現代史の文脈で整理した学術書はいまだ見たことがありません。

 

大変知的好奇心をそそる本でした。

「フォックスキャッチャー」★★★★

 

デュポンの御曹司が五輪レスリングの金メダリストを射殺するというショッキングな実話を映画化した作品です。作品は全体を通して暗い雰囲気が漂い、淡々と話が進んでいくので、やや退屈感もないわけではないのですが、これが実話だという前提で見ると、大変重厚感のある作品となっています。

 

五輪レスリングのメダリストのマーク・シュルツは、デュポンの御曹司のジョンから呼び出しの電話を受ける。ジョンの邸宅の敷地内のトレーニング場で練習するチーム「フォックスキャッチャー」に入ってオリンピックを目指さないかという誘いだった。

マークは当初ジョンとうまくやっていたが、次第に2人の仲には亀裂が生じてくる。そんな中、ジョンは、マークの兄で同じくレスリングのメダリストであるデイヴ・シュルツを呼び寄せる。デイヴは優秀な指導者であったため、ジョンのチームを支える指導者の立場になった。そんな中、マークは次第に居場所をなくしていってしまう。

その後、マークはチームを去り、デイヴはチームに残ったが、ある日、ジョンの敷地内に住むデイヴの下を訪れたジョンは、いきなりデイヴに発砲し、射殺する。。。


Foxcatcher (2014) Trailer

 

ジョンとマーク、デイヴの3人の間の微妙な人間関係の変化が、実に絶妙に描かれています。ジョンとマークの仲に亀裂が入り、デイヴが入ることでその亀裂はさらに助長され、デイヴとマークの仲にも亀裂が生じ、最期はジョンとデイヴの間に不信感が生まれて、射殺に至るわけです。

この作品の最大のテーマは、なぜジョンがデイヴを殺害したかにあります。もちろん、ジョンが統合失調症だったという面があるわけですが、この作品を見ると、ジョンのデイヴに対する嫉妬心が大きく働いているのではないかと感じます。ジョンが母親の前では、いかにも自らが指導者として仕切っているかのようなふりをしている場面があります。また、リングサイドに入ってコーチを務めることに固執します。しかし、結局、ジョンは優秀な指導者たりえず、デイヴを超えることはできなかったわけです。こうして、ジョンの心中には次第にデイヴに対する嫉妬心が芽生えてきた、というのが本作品の見立てといえるでしょう。

 

ジョン・デュポンを演じているスティーヴ・カレルの演技が光っています。ちなみに、カレルは、最近ではウディ・アレンの「カフェ・ソサエティ」の中での好演が光っていました。

 

見ごたえのある作品でした。

「サンザシの樹の下で」★★★★

 

サンザシの樹の下で [DVD]

サンザシの樹の下で [DVD]

 

チャン・イーモウ監督の2010年の作品です。文化大革命の最中、農村に送り込まれた女子学生と地質調査員の青年との淡いラブ・ストーリーです。

 

ジンチュウは、文化大革命の風が吹き荒れる中、都会から農村へと実習に送り込まれる。その村の丘の上には、サンザシの樹があった。その樹の下では、かつて日本軍によって多くの兵士たちが殺害されたため、その花の色は血の色に染まって赤くなったと言われている。

その村には、地質調査員のスンという青年がいた。スンとジンチュウはプラトニックでありつつも親しい関係になっていく。スンは良い家柄だったのに対し、ジンチュウの両親は反革命のレッテルを貼られていた。

ジンチュウはやがて学校を卒業して教師の職に就く。スンは離れた場所に住んでいたが、しばしばジンチュウの下を訪れ、密会を重ねていたが、ジンチュウの母親は2人の恋愛に反対で、2人が会うことを禁じた。

ジンチュウは、スンが入院したことを知り、スンの病院を訪れた。それは白血病によるものだということだったが、スンは単なる健康診断だと言い張る。2人は店で赤い生地を購入し、サンザシの花が咲く頃に、その生地で作った服で会うことを約束する。

その後、スンの連絡は途絶える。そして、スンが危篤となったとき、ジンチュウは駆けつけたが、もはやスンは会話ができる状態ではなく、そのまま息を引き取った。。。


映画『サンザシの樹の下で』予告編

 

スンが息を引き取る間際に駆けつけたスンは、周りの親族から、ジンチュウに名前を呼んでやってくれと言われるのですが、ジンチュウは名前を呼ぶことができません。その前の方のシーンに伏線があるのですが、恋愛に疎かったジンチュウはスンのことを名前で呼んだことがなかったのです。それほどプラトニックな愛でありながら、2人の心はしっかりと永遠に結ばれていたわけです。とても切ない設定です。

 

文化大革命の際に反革命のレッテルを貼られて肩身が狭い家庭のジンチュウと、党の幹部の身分の家であるスンが、純粋でプラトニックな恋愛感情で結ばれているものの、社会情勢がそれを許さないという設定があまりに切なすぎます。

 

この作品では、ジンチュウを演じたチョウ・ドンユィの透き通るような清純さが光っています。この作品の役柄のために生まれた女優さんといっても過言ではないかもしれません。膨大な人口を抱える中国には、こういう逸材がたくさんいるのでしょう。

 

サンザシの樹の下で日本軍が中国軍兵士を殺害したという政治的な設定が、日本人にとってはやや微妙な心境にさせられてしまいますが、純粋な恋愛ストーリーとしては、とてもよくできた作品でした。

「ウディ・アレンのバナナ」★★★☆

 

ウディ・アレン監督の初期の作品です。最近の洗練された作品に比べると、かなり粗削りで、勢いで作っているような印象を受けますが、それでも、ウディ・アレン独特のパンチの効いたコメディ・センスは既に開花していることが分かります。

 

企業の商品検査員のフィールディング(ウディ・アレン)は、自宅に署名集めに訪れた反戦運動家ナンシーに一目惚れし、2人は付き合うことに。フィールディングは彼女の気を引くために、熱心に反戦運動に加わるが、やがて、ナンシーは、フィールディングにリーダーシップがないことを理由に別れを告げる。

 

傷心のフィールディングは、単身で南米の独裁国家サンマルコに渡るのだが、そのまま革命軍に加わり、羨望の的となる。そして、いつの間にか大統領に仕立てられてしまう。その後、資金集めに米国に戻ってくるのだが、ナンシーはそれがフィールディングと知らずに、アプローチしてきたのだった。。。

 

 

トーリーは、あまりにくだらないのですが、冴えない主人公が反戦運動家の女性の気を引くために不器用ながらも一生懸命に口説いている姿に、どこか共感を覚えてしまいます。

ウディ・アレン監督のコメディ・センスは、この頃から今に至るまで引き継がれてきたといえますが、やはり作品としてたの洗練さは、当時に比べると、最近の作品の方が格段に上だと思います。

 

ところで、この作品におけるウディ・アレンの演技を見ていると、チャップリンサイレント映画を彷彿とさせます。極端な話、仮にセリフがなかったとしても、意味が伝わってきます。それだけ、ウディ・アレンは、俳優としても高い表現力の持ち主なのだと思います。

 

ウディ・アレンのセンスがぴたりとはまる人には、大変楽しめる作品です。

「カフェ・ソサエティ」★★★★★


『カフェ・ソサエティ』予告編

私の大好きなウディ・アレン監督の最新作です。溢れんばかりのジャズをバックに、ウディ・アレン監督らしいセンス溢れるラブ・コメディが展開され、夢見心地で楽しめる作品です。

 

 ニューヨーク育ちの青年ボビーは、ハリウッドに漠然とした憧れを抱き、映画界を取り仕切る叔父のフィルを頼って、単身ハリウッドへ移り、フィルの会社を手伝うことに。

右も左もわからないボビーのために、フィルは秘書のヴォニーをあてがう。ボビーはヴォニーと時間を共にするうちに、ヴォニーに惚れてしまうのだが、ヴォニー曰く、ヴォニーにはジャーナリストの恋人がいるとのことだった。

しかし、ヴォニーの恋人は妻帯者であり、離婚の決断ができなかったことから、別れを告げられる。ボビーは傷心のヴォニーを献身的に慰め、やがて二人は恋人関係になる。

 

二人は結婚してニューヨークに一緒に渡るという話になっていたが、ボビーは叔父のフィルから、自分は恋人と結婚するために妻と別れる決断をしたと告げられる。つまり、ヴォニーの恋人とはフィルだったのだ。

ヴォニーは迷った挙句、フィルと結婚することを決める。ボビーは再びニューヨークに戻り、ギャングと繋がりのある兄のクラブで働くことに。セレブが集まるその店で、ボビーは多くのセレブと知り合いになり、次第に力をつけていく。そして、知人の紹介によりお店で知り合ったもう一人のヴォニーと結婚して子供を設ける。

兄が数々の犯罪により死刑になると、ボビーは店の経営を引き継ぐ。そんなとき、叔父のフィルと昔の恋人のヴォニーが連れ立って店を訪れた。すっかりセレブ気取りのヴォニーを見て、ボビーは当初嫌悪感を抱くが、ヴォニーのニューヨーク滞在中に二人は頻繁に会う。ボビーがハリウッドに行った時も二人は会い、親密な時間を過ごしたが、かといってそれぞれの家庭がある中、二人が昔の恋人関係に完全に戻ることがなかった。

新年を迎える時、二人はそれぞれ別々のパーティーを楽しんでいたが、心の中では互いを想い合っていたのだった。。。

 

 

昔の恋人同士が、その後別々の人生を歩みながらも、どこか切れない心の絆で結びついているという大人のシチュエーションがとても魅力的です。

至るところにウディ・アレン監督ならではのピリッとしたジョークが散りばめられており、正にウディ・アレン・ワールド全開といったところで、個人的には、完全にツボにはまりました。

 

ジャズのスタンダードもふんだんに使われています。中でも♪My Romanceが大変効果的に使われています。


Cafe Society Soundtrack 09 My Romance

 

ところで、この作品のタイトルになっている「カフェ・ソサエティ」というのは、1930年代にニューヨークで、バーニー・ジョセフソンという人物が開設したクラブです。人種の壁を取り払って白人も黒人も集い、人民戦線の思想に共鳴した人々が集った場所だったようです。

このクラブは、ビリー・ホリデイが♪奇妙な果実を披露した場としても知られています。アメリカの共産党員でユダヤ人のエイベル・ミーアポルがこのクラブでビリー・ホリデイに出会い、ホリデイにこの歌を歌わせます。

戦後、カフェ・ソサエティは、共産主義と結び付けられて、FBIの厳しい監視を受けることになります。オーナーの兄のレオン・ジョセフソンは議会に召喚された後収監され、カフェ・ソサエティも間も無く閉店を強いられたとのこと。

 

 この作品で登場するカフェ・ソサエティの設定は、オーナーがユダヤ人という点は一致していますが、実際とはかなり異なっています。しかし、かつて抵抗の象徴だったジャズ・クラブの名称を映画のタイトルとするところに、ウディ・アレン監督のジャズへの造詣を感じます。

 

とにかく、最初から最後まで夢見心地でうっとりしてしまう作品でした。

大沢在昌「新宿鮫」

 

新宿鮫?新宿鮫1 新装版? (光文社文庫)

新宿鮫?新宿鮫1 新装版? (光文社文庫)

 

 

日本のハードボイルド・ミステリーの代表作家である大沢在昌氏の作品を、今更ながら初めて手に取りました。1990年の作品ですが、今読んでも全く色あせておらず、完成度の高い作品です。

 

主人公の鮫島は新宿署に勤務する警察官であるが、その経歴は異色で、もともとはキャリア官僚だったものの、ある公安関係事件に巻き込まれて、新宿署預かりの形で、防犯課に籍を置いている。鮫島は正義感に燃えながら、孤立無援で犯罪捜査に当たっている。一回り以上年下の昌というロックシンガーの女性を彼女に持つ。

 

新宿署の警察官が次々に射殺されていく。殺害に使われたのは、出所したばかりの木津という男が改造した銃だった。鮫島は木津の行方を追う。木津はゲイだったことから、鮫島は木津の出入りするゲイの店を張り込む。

鮫島はついに木津のアジトを突き止め、単身で乗り込んだものの、木津に返り討ちに会うが、鮫島の防犯課の上司が間一髪駆けつけ、木津を射殺する。

警官殺しの犯人は、木津の銃を持ち出したゲイの友人カズオと思われたが、カズオが一時泊まっていた知人の砂上だった。砂上は自分が新宿のライブ会場に向かう途中、チンピラに殴られたのだが、警察官は彼を助けに来てくれなかったため、警察官に恨みを持つことになったのだ。鮫島はちょうどその場面に立ち会っていたのだった。

鮫島は、砂上が次に鮫島の彼女の昌のライブ会場に犯行に向かうつもりであることに気づいた。昌が標的になっていたのだ。鮫島は昌のライブ会場に駆けつけ、間一髪、間に合った。。。

 

 

この作品の素晴らしいところは、一人一人のキャラクターが立っているところです。元キャリア官僚のはみだしである鮫島のキャラクターもさることながら、その上司の防犯課長の桃井は、家族を交通事故でなくして、性格が変わってしまったものの、孤軍奮闘する鮫島の唯一の理解者であり、鮫島を危機一髪で救出します。

鮫島の彼女であるロックシンガーの昌も、普段は強がっている性格で、鮫島に毒を吐きながらも、随所で女性らしさを垣間見るところが魅力的です。

 ゲイで銃の改造に執着する木津のキャラクターも独創的です。

こうしたプレイヤーたちのキャラクターの魅力が、本作品の魅力を高めているように思います。

 

新宿鮫シリーズはその後、著者の鉄板となるわけですが、こうしたキャラクター設定の巧妙さによるところが大きいと思います。

 

 

「ヒーロー・ネバー・ダイ」★★★★☆

 

ジョニー・トー監督の作品で、香港の2つのマフィアを舞台とする復讐劇です。それぞれの組織で用心棒を務めたジャック(レオン・ライ)とチャウ(ラウ・チンワン)の固い友情が見ごたえ十分です。

 

ジャックとチャウは、それぞれボスの右腕として、組織間の抗争で活躍。時には弱気なボスを鼓舞しながら、組織を支えていた。2人はとあるバーで遭遇し、互いのワイン・グラスをコインで破壊するゲームを繰り広げる。そこに、2人の彼女も合流。2人のネームプレートを付けたワインのボトルがキープされる。そのときにバンドが演奏していた曲が♪Sukiyaki(♪上を向いて歩こう)だった。

ところが、壮絶な抗争の中、2人はそれぞれ大怪我を負う。チャウは両足を切断することになり、車いすの生活を送ることに。ジャックもしばらく意識が戻らない状況が続いた。

そんな中、2つの組織は手打ちを行い、手を組むことに。2人は組織にとって邪魔な存在となってしまう。

生きる気力を失ったチャウを見た彼女は、チャウをボスのところに執拗に連れていき、抗議するのだが、鬱陶しく感じたボスは彼女を射殺する。チャウは物乞いの生活をしながら、彼女の敵を取るために、復讐を誓う。

一方、ジャックも組織から狙われ、ジャックを守ろうとした彼女は、ボスの一味に火をつけられ全身やけどを負う。

最後、ジャックとチャウは手を組んで、壮絶な復讐劇の末、ボスたちを射殺する。。。

 

 

全体的によくできたプロットであるとともに、ボスへの復讐心に燃える2人の男たちの心理が実によく描けています。散々ボスへ忠誠を尽くした挙句に、組織にとって要らない存在になると途端に手のひらを返して命まで狙われる、そんなドライで冷たいマフィアの論理に対抗して、壮絶な復讐を遂げる男たちの友情がとにかくかっこ良過ぎます。

 

こうした作品というのは、アジア映画ならではの醍醐味であり、ハリウッド映画では絶対に表現できない面のような気がします。

 

音楽も効果的に使われており、ゆったりとしたリズムで演奏される♪Sukiyakiが作品全体のムードを醸成しています。

 

ジョニー・トー監督の作品はこれまでもいくつか鑑賞しましたが、こうした人間性の本質をえぐるような作品を作るのが本当にうまいと思います。