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蓮見圭一「かなしぃ。」

かなしぃ。 (新潮文庫)

かなしぃ。 (新潮文庫)

 生きることには切なさが必然的につきまというのだということがひしひしと伝わってくるような短編が集められた作品です。

 本書のタイトルとなっている「かなしぃ。」は、友人の結婚式に出席するために故郷に帰った主人公が、かつての同級生たちとの旧交を温める話。遺書を残して自殺した少年の母親が二次会に顔を出す。主人公は、家が小料理屋をしていた少女の行方を追って近郊の小料理屋に足を運ぶ。その少女の下には少年が自殺した日、沖縄で「かわいい」を何というかを尋ねる手紙が入っていた。その答えは「かなしぃ。」だった。

 「詩人の恋」は、ある作家と編集者の交流の話。かつてピアニストだったその編集者の妻は、最初の主人を亡くした後、その主人の同級生の息子である編集者と結婚したのだった。クリスマスの日、作家の家には編集者から『詩人の恋』のCDが入っていた。

 書き下ろしの「スクリーンセーバー」は、地元の小学校の慰労会で知り合った年配の男性との交流の話。彼は小さな学習塾を開いており、大手に負けないよう必死に生徒とともに受験勉強に立ち向かっていた。その塾の生徒の一人は、中学生になって脳腫瘍が見つかり亡くなってしまう。

 「セイロンの三人の王子」は、社会部から政治部への配置換えを命じられた主人公の話。かつての政治部のベテランの下を訪ねた際、同期でもある前任者がある問題を抱えて結婚したことを知る。その前任者の妻は放火の疑いをかけられていたのだった。しかし彼はそれを承知で、自分を励まし勇気づけてくれる奥さんと結婚したのだった。

 「1989、東京」は、主人公の女性と一人の女中との交流の話。この女中は突如として姿を消してしまった。その後主人公の女性には国労幹部の子息との間に婚外子ができた。一方、女中はその後北海道で医師の妻として生活していた。女性は子供を連れて女中の住む北海道を訪ねようと思う。

 最後の「そらいろのクレヨン」は、単行本の標題ともなっていた作品で、会社を辞めてPR誌の編集者となった主人公の娘が若くして白血病にかかり、結局14歳で死んでしまう。主人公は、

死んでゆく子供は、死んでゆく大人よりもずっと大切だったから

というクンデラの言葉を思い出す。


 どの短編も、人生に必然的につきまとう切なさが漂っています。人生は切ないものであるにもかかわらず、それでも人々は必死に生きていかなければなりません。それはなぜか?著者の一つの答えが、「スクリーンセーバー」の最後部に記載されている次の言葉に集約されているような気がします。

あなたが無駄に生きた今日は、昨日人が痛切に生きたかった明日である

 死んでいく人がいる一方で残された人が存在する。その残された人は死んだ人の分を背負いながら生きていかなければならない、だからこそ生きている人々の生活にも必然的に死臭が伴っている、そんな世の常を、本書に収められた多くの短編から感じ取ることができます。

 大変良質な短編が収められた作品です。