- 作者: 青木保
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2001/07/19
- メディア: 新書
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青木氏は、自身が実際にタイの僧侶となった経験を持ち、身を以て異文化を体験しています。そうした原体験が、本書の説得力にもつながっています。
ためになった指摘として、まず、文化におけるコミュニケーションについて、イギリスの社会人類学者エドマンド・リーチにならって、
一.「自然」のレベル・・・信号的なレベル
二.「社会的」レベル・・・記号的なレベル
三.「象徴」というレベル
の3段階があるとし、これらの3つのレベルが総体として異文化を形作っており、この文化の全体性の中にさまざまな要素が組み込まれて、人々の言葉と行動に意味づけをしている、と青木氏は述べておられる点が挙げられます。
また、
「混成文化」
という概念を提唱されていることも注目されます。つまり、現代世界においては、本当に「純粋な文化」というのは存在しないという指摘です。
例えば、青木氏は、アジアには4つの文化の時間が流れていると指摘します。
一.土着の時間(それぞれの地域や土地固有の文化的な時間)
二.アジア的文化の時間(大陸から日本に渡ってきた仏教や、儒教、漢字など、南アジアや東アジアの古代文明に発する普遍的な文化時間)
三.西欧的、近代的文化の時間(近代化や工業化を促す時間)
四.現代的な時間
この「混成文化」という考え方は、非常に分かりやすい概念です。
そして、私がこの本の中で最も感銘を受けたのは、
「境界の時間」
という考え方です。それは、儀式を行っている時間のように、
「個人としては連続していても社会的には一種の空白の時間」(青木「異文化理解」p64)
言い換えれば、
「日常と日常の間の裂け目を形作る、独特の時間」(前掲書p64)
を指すものです。
アジアの国々の中には、この「境界の時間」が日常生活の中にうまく組み込まれているのに対して、日本社会にはそうした「境界の時間」がどこにも設定されていないと青木氏は述べられています。
「私たちの現代日本社会は、のべつまくなしに日常の仕事の時間が全体を覆っており、朝起きてから夜寝るまで、「境界の時間」がどこにも設定されていません。・・・結局、現代の直接的な時間に裂け目を作る装置がないため、日本社会はゆとりのない、緊張ずくめの社会になってしまっているとも感じられるのです。
・・・日本でも近代以前には生活の中に「境界の時間」にあたるものが組み込まれていたのですが、近代化と都市化のプロセスの中でほとんど失われてしまいました。今では異文化に接することによって、その中に自文化にないものを見つけていくしかなくなっているわけです。」(前掲書p72−73)
この指摘には、思わずハッとさせられました。
異文化を体験すること自体、「境界の時間」であるわけですが、そもそも、かつての日本社会には、自文化の中にも「境界の時間」があった、それが近代化の中で失われていってしまい、単調な日常生活が繰り返される世の中になってしまったというわけです。これは、青木氏の異文化における数々の体験から導き出された大変意義深い指摘です。
日常生活の中にどのような「境界の時間」を設定するかは、ますます日本社会にとって深刻な問題となっていくように思われます。
以上のように、この本は、大変平易な文章で、極めて奥深い指摘がなされています。是非、御一読ください。