- 出版社/メーカー: クロックワークス
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この映画は、ソクーロフ監督自身「芸術映画」と言っているように、史実に基づくドキュメンタリーではありません。昭和天皇とマッカーサーの間で交わされている言葉なども、監督らが想像力を働かせて組み立てられているようです。
映画の中の昭和天皇は、部下の前で終始落ち着かない素振りを見せるなど、極めて「人間的」です。息子の写真にそっと接吻するシーンなどは、昭和天皇の慈悲深さを表しています。そして、ソクーロフ監督が昭和天皇のキャラクターを描くのに欠かせないものとして扱っているのは、「生物学者」としての昭和天皇です。生物学者でもあった昭和天皇は、自分が「神」でないことくらい当然承知していたはずであり、にもかかわらず「神」を演じなければならなかった昭和天皇の苦悩がこの映画の中で描かれています。そして、生物学者ゆえの科学的知識が、戦争を止めることまではできなかったにせよ、戦後の日本の早期の立ち直りを促す方向に働いたのではないかという仮説をソクーロフ監督は持っていたようです。
こうした監督の強い信念に基づいて描かれる昭和天皇のキャラクターは、我々日本人にとってはやはり少なからず衝撃的なものとなっています。
例えば、マッカーサーとの会食中、マッカーサーが席を外したときに昭和天皇が1人静かにダンスを踊るシーン、米国人による写真撮影に応じた際に「チャップリン」と声をかけられおどけるシーンなど、見る人から見れば、昭和天皇を「冒涜」している「不謹慎」と映るかもしれません。また、逆にこうした昭和天皇の仕草を純粋に「滑稽」なものとして捉える人もいるかもしれません(現に、映画館では、こうした昭和天皇の仕草や昭和天皇が「あっそー」と発言する場面などで少なからぬ笑い声が上がっていました。)。
しかし、私はこうしたシーンを見ても、「不謹慎」とも「滑稽」とも感じられず、むしろ、望まずして「神」を演じていた昭和天皇の悲惨なほどの「苦悩」が逆説的に見事に描かれていたように感じられました。「神」と「人間」との間で悲しいまでに引き裂かれてしまった昭和天皇の苦悩が痛いほど伝わってきました。
「神」と「人間」の間で引き裂かれる昭和天皇というこの映画のテーマが見事に描かれていたのは、かつて「太陽」であった昭和天皇が、本来太陽によって明かりを与えられているはずの「月」に照らされる中で、「人間」になったことを噛み締めるシーンでしょう。昭和天皇は自ら運命を決める立場には決してなく、「神」にさせられたことも、そして「人間」にさせられたことも、すべて昭和天皇本人が決めたことではありませんでした。昭和天皇は、日本の歴史的敗北という大きな歴史の荒波の真っ只中に居ながら、大変無力な存在だったわけです。昭和天皇の本当の姿は、国家や歴史を動かす姿ではなく、実は生物の神秘に対して純粋に心から感動するような生物学者としての昭和天皇だった、それがこの映画を通じてソクーロフ監督が伝えたかったメッセージだったのかもしれません。
もう1つ付言すれば、この映画の中で、昭和天皇が「大正13年」、すなわちアメリカにおいて「排日移民法」が決定された年に執拗に言及する場面があります。昭和天皇は、この戦争の遂行自体に消極的だったことは知られていますが、ただし、太平洋戦争の遠因にこの「排日移民法」の制定があり、国民の憤慨を抑えられなかったとのお考えを持たれていたのです。あの「排日移民法」さえなければ、というのが昭和天皇の強い思いだったようです。
この昭和天皇の発言は、『昭和天皇独白録』によっていると思われますので、以下引用します。
「大東亜戦争の遠因」
「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものであり。又青島還附を強いられたこと亦然りである。かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上つた時に、之を抑へることは容易な業ではない。」(『昭和天皇独白録』文春文庫P24−25)
- 作者: 寺崎英成,マリコ・テラサキ・ミラー
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