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レイモンド・チャンドラー「大いなる眠り」

大いなる眠り (ハヤカワ・ミステリ文庫)

大いなる眠り (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 村上春樹訳を読んでみました。レイモンド・チャンドラーの代表作の一つです。

 私立探偵フィリップ・マーロウは、資産家の将軍から呼び出された。将軍の2人の奔放な娘のうち下の娘カーメンが、何者かから借金をたてに強請られていたのだ。他方、上の娘のヴィヴィアンの夫ラスティー・リーガンは忽然と失踪していた。ラスティーは将軍のお気に入りだったため、将軍はその行方を気にしていた。

 マーロウはカーメンを強請っていた書店主のガイガーを見張っていると、ガイガーは自宅で殺害され、その場には裸で気を失ったヴィヴィアンの姿が。ガイガーの書店からわいせつな本を持ち出したジョー・ブロディは、ガイガーの手下に殺害される。

 ガイガーの件は一件落着したのだが、残った問題はヴィヴィアンの元夫ラスティーの行方だった。ラスティーに関しては、マーロウは将軍から何ら依頼を受けていなかったのだが、何らかの事実が隠されていた。

 ラスティーは、カジノ経営者のエディ・マースの妻モナと駆け落ちしたとされていた。しかし、マーロウはこの話に不審な点を感じる。マーロウはエディ・マースの手下から命を狙われ、彼を殺害する。

 マーロウは再び将軍の自宅を訪ね、そこでラスティーの行方を探ることを約束する。そして自宅にいたカーメンに誘い出されるまま油井に向かい、そこでマーロウは銃の手ほどきをカーメンに施す。カーメンはマーロウに向けて銃を撃ったが、その銃は空砲だった。

 マーロウは、カーメンがラスティーを殺害したことを確信した。カーメンは正常な精神ではなかったのだ。その事実を隠すためにヴィヴィアンがエディ・マースに依頼して、ラスティーがエディ・マースの妻と駆け落ちしたように見せかけたのだった。。。


 物語の最後に一気に真相が明らかになり、胸のつかえがストンと落ちたような気持ちになります。

 ただ、途中、いろいろな登場人物が出てくるので、人物関係を整理するのに多少労力が要ります。村上春樹氏が解説の中で述べているように、この小説には、のびのびさ故の「過剰さ」というのもあります。理屈で考えると、登場人物をもう少しスリム化できる部分もあるように思います。

 例えば、村上氏が解説で指摘していますが、この作品では、将軍家のお抱え運転手が何者かに殺害されるのですが、誰が殺害したのか、今ひとつはっきりりないままです。そこで本作の映画化を手がけた人物がチャンドラーに電報を打って、誰が殺したのかを聞いたところ、チャンドラーは「私は知らない」と答えたとのことです。このエピソードから想像がつくように、このお抱え運転手の殺害という設定も物語にとって本当に必要かと言われれば、なくてもいい場面のようにも思えます。

 他方、村上氏も指摘しているように、チャンドラーの小説の一番の魅力は、ある種の自由さにあるように思います。マーロウの行動様式は実に自由です。警察官たちが組織の論理によって行動を規律付けられているのに対し、マーロウは依頼人のために行動するという縛りはあるものの、殺害現場に立ち会ったり、時には人を殺害すらしてしまう場面すらあります。それは、マーロウなりの好奇心、冒険心に裏打ちされた自由です。自由が縛られている現代人にとっては羨ましい限りです。

 最後に、村上氏の解説中の言葉を以下引用しておきます。大変共感します。

「我々は誰しも自由に憧れる。しかし自由であるためには、人は心身共にタフでなくてはならない。孤独に耐え、ことあるごとに厳しい判断を下し、多くのトラブルを一人で背負い込まなくてはならない。そして言うまでもないことだが、我々の全員がそこまでタフになれるわけではない。我々の多くはどこかの時点で保護を必要とし、頼ることのできる組織を必要とする。
 しかしマーロウは、・・・そんな妥協をすることなく、どれほど痛い目にあわされようと、生命を脅かされようと、嘲られようと、その自由さを執拗なまでに貫いていく。・・・しかしマーロウには、今彼が送っている以外の生き方を選ぶことはできない。それがどのような苛酷さをもたらすことになるにせよ、自由であること、組織や規則に縛り付けられないこと、自分の決めた原則を守り抜くこと、相手よりも少しでも速く銃を抜くこと、それらがマーロウという人間の骨にまで染み込んだネイチャーになっているのだ。」