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吉見俊哉「親米と反米―戦後日本の政治的無意識」

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

 この本を読んでまず感じるのは、
日本社会はアメリカ社会を他者として捉え、冷静に眺めて分析しようとするには、余りにも内部に「アメリカ」を取り込みすぎている
ということです。

 本書では、幕末から70年代までにかけての日本における「アメリカ」の受容と反発についての分析がなされているのですが、アメリカの<内部化>ともいうべき現象が戦後急速に進んでいったことは知られているにしても、実は戦前の日本社会にもアメリカ文化の浸透が進んでいたという事実は、あまり認知されていないかもしれません。1929年に出版された室伏高信の本の中で、今や
「アメリカ的でない日本がどこにあるか。アメリカを離れて日本が存在するか。アメリカ的でない生活がわれわれのどこに残っているか。私は断言する、アメリカが世界であるばかりではない。今日は日本もまたアメリカのほかの何ものでもなくなった」
と語っていたという事実には衝撃を受けました。

 さて、この本の分析の醍醐味は、やはり戦後日本社会についての部分でしょう。吉見氏によれば、戦後日本社会が抱え込んだ内なる「アメリカ」は、2つの次元を内包していたと述べています。一方は

暴力としての「アメリカ」

であり、他方は

商品やメディアに媒介されるイメージとして消費される存在となった「アメリカ」

です。前者の暴力としての「アメリカ」というのは、占領軍や米軍基地といった存在としての「アメリカ」であり、基地周辺におけるパンパンなどがそうです。

 敗戦当初においては社会の前面に出ていたこの暴力としての「アメリカ」は、次第に忘却されていくことになります。というよりも、積極的に忘却されていきます。そして、これに置き換わっていくのが、後者のイメージとして消費される存在としての「アメリカ」です。テレビを始めとする家電製品は、アメリカ的な生活のイメージと結合して普及してきます。そして、そうした家電製品はアメリカンなまなざしに保証されることによってナショナルな主体を立ち上げていくことになるのです。

「アメリカンなものを追求することこそが新しいネーションの実現であるといった新しい国民的主体化とアメリカニズムの関係が、まさしく大衆的な広がりをもって成立した」(p206)

というわけです。

 そして、興味深い点は、こうしたプロセスがマッカーサー天皇の関係とも重ね合わせることができるということです。占領期に絶対的な権力を持っていたマッカーサーは可能な限りメディアに露出せず、代わりに占領体制の中でまなざしの焦点に位置づけられたのは、天皇だった。つまり、表象としての「アメリカ」と表象としての「天皇」は複雑に入り組んだ関係をなしてきているというわけです。

 こうして70年代までに

「消費社会型のアメリカニズム=ナショナリズム」(p232)

という構図が確立されていった、というのが本書の主張の骨子です。「アメリカ」は人々の政治的無意識に介入していった結果、日本は、安定的に7割を超える人々が米国に親しみを感じるという世界でもまれに見る親米社会を形成していったわけです。

 ここまで歴史的に深く「アメリカ」が内部に浸透してしまっていると、もはや我々はアメリカ社会を他者として眺めることは困難であることは明らかでしょう。そして、我々がナショナリズムを唱えようとすればするほど、内に内包する「アメリカ」が頭をもたげてくるという皮肉な構図が現在でも継続しているのは、そもそも我々の深層心理に「アメリカ」が深く浸透しているからにほかなりません。

 今日の安倍総理の強固なナショナリズム思想が、従属的とも受け取れる彼の強い親米の態度と不可分一体であることは、こうした日本社会の辿ってきた歴史を振り返ってみると、納得がいくように感じます。