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ジョン・ル・カレ「誰よりも狙われた男」

 ドイツのハンブルクにやってきたチェチェン出身の一人の若者を巡るミステリー作品です。

 ハンブルクに暮らすトルコ人親子の下に、イッサと名乗る一人の密入国の若者が転がり込んできた。一方、銀行家のトミー・ブルーの下にはアナベル・リヒターと名乗る若い女性弁護士から電話が入る。アナベルはイッサを匿うトルコ人親子を通じて、イッサの弁護士を務める女性だった。
 ブルーの銀行には、かつてイッサの父親が開設した秘密口座があった。イッサはアナベルを通じ、自分が医学を勉強するための資金をブルーに助けてもらうことを希望する。
 イッサの境遇に共感し好意を寄せるアナベルと、アナベルに好意を寄せるブルーは、秘密口座の資金をドイツのイスラム指導者のアブドゥラに託し、イスラム教徒、なかでもチェチェンの人々のための資金として活用することを提案する。イッサはその一部を受け取って自分の医学の勉強に充てるという計画だった。それは、アナベルがイッサを救うために、アブドゥラを取り込もうとするドイツの諜報機関から指南された方策だった。
 他方、イッサはドイツの諜報機関からはチェチェンのテロリストとしてマークされていた。さらにイギリスやアメリカの諜報機関もイッサの存在をマークする。ドイツの諜報機関の中でも、様々な派閥の対立があり、こうした複雑な構図の中で、イッサはアブドゥラが推薦する世界中のイスラムの団体に資金を送金することになる。
 ブルーの銀行での送金を終えた後、当初はドイツの諜報機関が仕込んだタクシーがアブドゥラをある場所に連れて行く段取りのはずだった。ところが、そのタクシーに一台のマイクロバスが突っ込んできて、アブドゥラとイッサを連れてさらっていってしまった。そこに現れたのはCIAの職員だった。彼らをどこに連れて行ったのかと問いただすドイツ諜報機関の職員に対し、CIA職員は“正義はなされた。”と答える。さらに何の正義か?と問いただすと、CIA職員は“アメリカの正義”だと答える。。。


 ハンブルクを舞台に各国の諜報機関がうごめく、リアリティのある作品でした。ハンブルクはよく知られているように、9・11の首謀者であるモハメド・アタが留学先に選んだ地です。イスラムのモスクもあり、モハメド・アタもハンブルクのモスクで祈りを捧げていたのです。その地で永住権を取得しようしていたトルコ人親子の下に突如として飛び込んできたチェチェン出身の若者イッサ。しかも、その若者は、ロシア人の父親ががチェチェン人の母親を強姦して生まれた息子で、その父親が密かに預けた汚れた資金だったという設定は、今の世界情勢を踏まえたスパイ小説の新領域というにふさわしいシチュエーションです。

 訳者の後書きによれば、イッサにはモデルが存在するとのこと。それは、アメリカ軍にテロ容疑の濡れ衣を着せられて拘束されたドイツ在住のトルコ人だそうです。彼はグアンタナモで5年間の獄中生活を強いられた後に釈放された人物だそうで、ル・カレは彼と親しいとのことです。

 本書からは、アメリカの正義の欺瞞に批判的な視線が感じられます。そして、9・11後の西欧対イスラムという対立構図の中、個人個人の行動は必ずしもこうした対立構図に解消されないということも本書のメッセージであるように思います。アナベルやブルーがイッサのためにとった行動は、西欧対イスラムの構図を超越した人道的なものです。西欧の国家や諜報機関が依然として絶対的な正義を掲げた行動をとる中で、個人個人の行動はそうした単純な構図では決められないというのが、これまでの数々のスパイ小説のモチーフとなってきましたが、本書も正に国家や民族の対立構図の中におけるヒューマニズムの救いを描いているような気がしました。