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ドン・ウィンズロウ「サトリ」

サトリ (上) (ハヤカワ文庫NV)

サトリ (上) (ハヤカワ文庫NV)

サトリ (下) (ハヤカワ文庫NV)

サトリ (下) (ハヤカワ文庫NV)

 トレヴェニアンの『シブミ』の前日譚を、ドン・ウィンズロウが書いた作品ですが、『シブミ』で描かれたニコライ・ヘルのキャラクターがそのまま引き継がれ、『シブミ』に勝とも劣らない刺激的でスリリングな作品に仕上がっています。

 舞台はニコライ・ヘルが米軍占領下の東京の拘置所から解放されるところから始まる。ニコライ・ヘルは岸川将軍に名誉の死を与えるために殺害した罪で拘置所に収監されていたが、CIAはある任務の遂行と引き換えにニコライ・ヘルを解放したのだった。

 ニコライはまず整形手術を受けた後、ソランジュという美しいフランス女性の下でフランス人となるべく教育を受け、ソランジュに強く惹かれた。ニコライはミシェル・ギベールという武器商人になりすました。殺害の標的はユーリ・ヴォロシェーニンというソ連の在中国通商参事官だった。中国がヴォロシェーニンを殺害したと見せかけることによって、中国とソ連の関係に楔を打ち込むことが目的だった。朝鮮半島で米中関係が悪化したことで、ソ連と中国の関係が強化され、共産主義ブロックが形成されていることをアメリカは危惧していた。

 ニコライは武器商人になりすまして、中国政府がヴェトミンに武器を売却するのを手助けすることを口実に北京入りした。中国とソ連の関係は微妙で、ソ連はヴェトナムを押さえれば中国の包囲が完成する状況だったため、むしろアメリカとの関係改善を望んでいた。ヴェトナムではアメリカがフランスからの地位を継承するため、CIAの工作員が入り込んでいたが、中国政府はヴェトミンがフランスを一気呵成に打ち負かせば、アメリカが介入を諦め、米中関係の悪化は避けられるという期待を抱いていた。そのためには、密かな武器の支援が必要だったのだ。

 ヴォロシェーニンはニコライにとって、怨念の人物だった。彼はニコライの母親を騙して名誉を傷つけ、財産を盗んだ人物だったのだ。ニコライは劇場内でヴォロシェーニンの殺害を実行に移そうとするが、中国秘密警察に捕らえられ、長官の康生の邸宅に連行される。ニコライは反撃して康生を殺害した後、ヴォロシェーニンの待つ劇場に赴き、ヴォロシェーニンを殺害する。

 しかし、ニコライはCIAからの回し者に襲われる。CIAに裏切られたのだった。その間一髪の状況からニコライを救ったのは中国の余大佐だった。彼はニコライの正体を始めから知っていたのだった。

 ニコライは余大佐の案内で雲南省の山地に匿われる。中国とソ連はCIAの思惑通り非難合戦を始めていた。ニコライは中国政府との約束通り、ロケット・ランチャーをヴェトミンに届けることを決意する。それは余大佐への義理を果たす意味もあった。当然CIAはニコライを追いかけることが予想された。ニコライはソランジュとの再会も強く熱望した。ニコライはロケット・ランチャーを運んでヴェトミンを目指した。途中、河川匪賊のビン・スエン派と遭遇し、その頭目ル・ヴァン・ヴィエンと出会う。ビン・スエン派はヴェトミンの罌粟の権利を奪い、独占していた。ニコライはそこで<X作戦>の実態を知ることになる。フランスはビン・スエン派から罌粟を仕入れ、その資金で武器を調達していたのだった。ニコライはソランジュがサイゴンにいることをニュースで知り、サイゴンを得目指した。サイゴンにはニコライは来ることを予測したCIAも工作員を送っていた。ニコライはビン・スエン派に武器を売り渡すことに決める。

 サイゴンでニコライはバオ・ダイにカジノで引き合わされる。バオ・ダイと遭遇したニコライは驚いた。ソランジュがバオ・ダイの愛人だったのだ。ニコライはカジノでバオ・ダイと勝負する。緊迫した勝負で勝利したのはニコライで、バオ・ダイから多額の資金を巻き上げた。しかも、ニコライは自分のソランジュを手にしているバオ・ダイに嫉妬を抱いていた。バオ・ダイもニコライがソランジュをも手に入れようとしていると感じ、ニコライの暗殺を命じる。

 ニコライはソランジュと密会して、再び愛を確かめる。ニコライは最初の約束どおり、ロケット・ランチャーをヴェトミンに届けることにする。

 そしてニコライはたびたび自分を襲いに来たいわゆる<コブラ>がソランジュであったことを知る。しかし、ソランジュは結局「殺してくれ」と言うニコライを殺害できなかった。ソランジュもニコライを愛していたのだった。

 ニコライとソランジュは一緒にサイゴンからの逃走を図る。そして、武器の届け先のヴェトミンのアイ・クォクに出会う。アイ・クォクにニコライがこれまで北京でたびたび遭遇し、声をかけていた僧侶だった。

 クォクの指南でニコライはソランジュと共に草地に逃げ込む。フランス軍の攻撃を受け、2人はヴェトミンの掘ったトンネルに逃げ込む。ニコライをはめたCIA局員ダイアモンドもニコライを追っていた。ダイアモンドの発射した銃によってソランジュが傷つく。ソランジュは命を落とした。ニコライはソランジュのいない新しい生活を送らなければならなかった。。。


 上下にわたる長編ミステリーで、ヴェトナムを巡る中国、ソ連、アメリカの思惑の交錯する複雑な政治情勢を背景にした小説ですが、人物関係は割とすんなりと入ってきます。やはりニコライの人物像がこの作品の魅力であることには違いありません。常に冷徹な判断を行うニコライですが、ソランジュへの思いを忘れれらない点では人間らしさも持ち合わせています。そして、自分の母親を侮辱した人物への忘れられない怨念、自分を拷問にかけて痛めつけたCIAの局員に対する復讐心、中国政府の恩人への義理を果たすために危険を顧みずに武器を届けようとする義理堅さ等々、ニコライのキャラクターの魅力を上げればきりがありません。そして、こうしたニコライの人間性の基礎となっているのが、日本での岸川将軍からの教えでした。そして、緻密な戦略の基になっているのが、日本で学んだ碁の思考方法だったわけです。そうした日本的な面を一言で言い表した言葉こそが本作品のタイトルともなっている「サトリ」です。

 それにしても、さすが人気ミステリー作家ドン・ウィンズロウです。緊迫した場面を描く筆力には脱帽です。サイゴンでのバオ・ダイとのポーカーの一騎打ちの場面は思わず手に汗握る緊迫感を漂わせています。また、最後ニコライとソランジュがヴェトミンの狭いトンネルの中を逃走する場面も秀逸です。ソランジュという女性の主役のキャラクターも冴えています。ニコライを襲う<コブラ>の実態は最後まの方まで分からないままですが、それがソランジュだということが判明します。ソランジュのキャラクター設定もよくできています。母親が娼館で働き、自分の彼氏がレジスタンスの活動によって囚われて処刑された後、ゲシュタポの大佐に処女を売ることでベッドを共にし、そこで喉を切り裂いて報復を果たすという気骨のある女性像として描かれています。そして、たびたび北京でニコライが遭遇してニコライの行動に多かれ少なかれ影響を与えた雪心という僧侶が実はヴェトミンの工作員だったというのもアッと言わせる展開です。

 久々に充実した読後感を覚える長編ミステリーでした。