日本経済新聞の経済教室に玄田有史教授の小論が掲載されています。
内容は著書「希望のつくり方」の内容を踏襲したものですが、著書と同様に、私にはいまいちピンと来ませんでした。
この小論の中で、玄田氏は
「希望が社会に広がるための一番の手段は、まぎれもなく雇用対策の充実である。」
と述べています。
つまり、働けるようになることが希望が社会に広がるための近道だ、というわけです。働くことに希望を求めろ、という主張がいかに欺瞞に満ちたものであるかについては、以前述べたので繰り返しません。
http://d.hatena.ne.jp/loisil-space/20101031/p1
ごく簡単に言えば、労働や仕事の内容はあまりに多義的で、やりがいのある労働に従事して仕事を楽しんでいる人ほど、高い報酬をもらい、お褒めに預かっているわけで、そういう恵まれた仕事に就いている人がそうでない人々に対して労働に希望を持て、というのは欺瞞に満ちていると言わざるを得ないと思うのです。
玄田氏の主張は菅総理の主張とだいぶ共通点があるようです。この小論でも、「不幸最小内閣」を標榜する菅内閣について、
「経済成長を追い求めるよりは、もっと内面的な心の充実を目指そうという考えが見えかくれする。」
と半ば賞賛の言葉を送っているのですが、この菅内閣スローガンをこのように好意的に受け止めている見解は、私はあまりお目にかかったことがありません。
雇用に希望を求めようとする姿勢も「1に雇用、2に雇用・・・」という菅内閣の主張に沿ったものです。
今の菅内閣の政策の混迷に閉塞感が増している状況を踏まえると、どうも菅内閣の主張に沿った姿勢で希望を持てというのは、あまり説得力がありません。
働いて生計を立てるということが幸福への大前提であることは言うまでもありませんが、論じられるべきはその先の希望であって、それは労働だけでなく余暇に求めても良いのではないかと想うのです。それは人それぞれです。
希望は自ら紡ぐものだという主張も分からないでもないのですが、希望を持ちやすい社会を構築するのは、政治の最重要課題だと考えるべきです。アニマルスピリットを持てと言ったり、自分で紡げというのでは、何の解決策にもなっていないのです。
どうも「希望学」こそが希望を見失ってしまっているというのが私の率直な印象です。