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「神の子どもたちはみな踊る」

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 この作品は、村上春樹氏の多くの作品と比べて明らかに異彩を放っています。これらの作品に登場するのは、常に自らの行く末に対して冷静に「やれやれ」と諦観するクールな主人公ではなく、どこか精神のリズムが狂ってしまったぎこちない主人公たちが登場するとでも言ったらよいでしょうか。
 このリズムを狂わせたのは、もちろん阪神大震災です。いずれの作品にも阪神大震災が顔を出しています。おそらく村上春樹氏自身が、阪神大震災で大きくリズムを狂わされたのでしょう。何か不条理なものを感じたに違いありません。それが、村上氏にこうした異色の作品を書かせる動機となったものと推測されます。

 1つめの「UFOが釧路に降りる」は、阪神大震災の5日後に突然妻が実家に帰ってしまったという話。主人公は会社の同僚からなぞの箱を釧路の妹に届けるよう委ねられる。そして、その妹とその友達から、ある美容師の妻がUFOに遭遇してまもなくして姿をくらましてしまったという話を聞かされる。そして、妹の友達から、運んできた箱の中身は彼自身だと聞かされる。

 2つめの「アイロンのある風景」は、茨城に家でしてきた順子と、毎日海で焚き火をする絵描きの三宅さんというおじさんの話。三宅さんは神戸の出身で、2人の子どもを置いてきていた。順子は三宅に一緒に死のうと持ちかけ、三宅の腕の中で眠りにつく。

 3つめの「神の子どもたちはみな踊る」は、善也とその母親の話。善也の母親は年の割に若く、善也の姉と間違えられるほどだった。善也には父親がおらず、父親は『お方』だと教えられてきた。善也の母親は完璧に避妊した男と交わったにもかかわらず、善也を孕んだ。だから、善也は『お方』の意思によって生まれたというわけで、以来、母親は宗教にはまっていた。
 善也は母親から、まぐわった相手の男は、犬に耳を食いちぎられた医師であると聞いていたが、ある日千代田線の中で耳たぶのない男を見つけ、それが自分の父親だと直感する。そのとき、母親は阪神大震災の救援活動に行っていた。善也はその男の後をつけ、気がつくと、そこは野球場だった。
 善也は小さい頃から外野フライを捕るのが苦手で、外野フライが捕れることが彼にとって大きな懸案だった。それが、今ではそうではなくなっていた。善也はピッチャーズ・マウンドに上がり、大きく腕を回す。彼はかつて踊り方がかえるに似ていたので「かえるくん」と呼ばれていた。そして「踊るのも悪くないな」と思い、白い月の光の中でひとり踊り始める。そして「神様」とつぶやく。

 4つめの「タイランド」は、甲状腺の研究をしている女医の話。彼女はアメリカに渡って研究活動を行い、そこでアメリカ人の夫と結婚したものの、その後離婚。そして、甲状腺の会議に出席するために、タイに向かった。そこで出会ったのがガイド兼運転手のニミットという男だった。ニミットから阪神大震災について聞かれた彼女は、神戸には知り合いがいないと思うと答えたが、実は神戸には「あの男」が住んでいた。彼女はあの男がぺしゃんこになることを長い間望んでいたのだった。
 ニミットは彼女を村のはずれの小さな家に住む年老女のところに案内する。老女は彼女に対して、あなたの体の中には石が入っていると言う。そして、近々大蛇の夢を見るので両手でしっかりつかめば大蛇が石を飲み込んでくれると告げる。
 彼女は生まれてこなかった子供のことを思い、その子供を抹殺した神戸の「あの男」を憎んできた。ある意味で、神戸の地震を引き起こしたのは彼女だった。
 彼女は夢がやってくるのを待った。

 5つめの「かえるくん、東京を救う」は、ある信用金庫に勤める片桐の前に突然かえるくんが現れるという話。かえるくんは片桐に対して、2月18日の朝8時半に、阪神大震災よりもはるかに大きな地震が東京を襲うことを告げる。地震を止めるためには、新宿の地下に降りてみみずくんと戦わなくてはならず、そのために片桐が選ばれたのだった。
 ところが、計画を実行する前に、片桐は新宿で若い男から拳銃で撃たれる。目が覚めたときには、片桐は病院のベッドに横たわっていた。時間は2月18日の朝9時15分、かえるくんが大地震が起こると言った時間は過ぎていたが、地震は起こっていなかった。そればかりか、看護婦によれば、片桐は拳銃で撃たれたのではなく、歌舞伎町の路上で昏倒していたところを発見されたというのだった。
 その夜、かえるくんが病院にやってきた。そして、片桐が夢の中でかえるくんを助けてくれたと聞かされる。結局かえるくんは、みみずくんに打ち克つことはできず、せいぜい引き分けに持ち込んだとのことだった。そして、かえるくんの体は蛆虫まみれになり、病室は蛆虫だらけになる。そこで、片桐は目を覚ました。彼は看護婦に対して、かえるくんが一人で東京を地震から救ったのだと話す。それは、アンナ・カレーニナが驀進してくる機関車に勝てる確率よりも少しましな程度だったにもかかわらず・・・。

 そして最後の短編は「蜂蜜パイ」。小説家の淳平は、学生時代からの友人である小夜子の娘の沙羅に、熊の物語を聞かせていた。小夜子は淳平の親友で新聞記者の高槻と結婚して一人娘の沙羅をもうけたが、その後2人は離婚した。実は、淳平は小夜子のことが昔から気になっていたのだが、淳平の前に高槻が小夜子に手を出していた。小夜子は淳平とキスを交わすが、結局、小夜子は高槻と結婚したのだった。しかし、高槻も実は小夜子は淳平に惹かれていたことを知っていた。沙羅の名付け親も淳平だった。
 小夜子と高槻が離婚した後は、2人が会う際には淳平が立ち会うことが了解事項となっていた。高槻は淳平に小夜子との結婚を勧めるが、淳平は躊躇する。
 淳平は沙羅に聞かせる熊の話を考えていた。熊の<まさきち>と<とんきち>は友達同士だったが、ある日、川の鮭がいなくなったために<とんきち>は山を降りたところで捕らえられ、動物園に送られてしまったというところまで話は進んでいた。しかし、そんな<とんきち>の結末に沙羅も小夜子も納得していなかった。
 そして、淳平は小夜子に結婚を申し込むことを決意する。すると、熊の話のアイデアが浮かんできた。<とんきち>が動物園に送られるというストーリーははやめにして、<とんきち>は<まさきち>の集めた蜂蜜を使って蜂蜜パイを焼き、2人が山の中で幸福に親友として暮らしていくというストーリーだった・・・。


 このように見て来るとはっきり分かるように、この短編集に収められたいずれの物語も、どこかで阪神大震災とつながっています(最近読んだ堀江敏幸氏の『雪沼とその周辺』もこれと似たような感じです。)。いずれの物語においても阪神大震災はちょこっとしか言及されていないのですが、実は、それが物語の展開上、極めて重要な地位を占めているような感じがします。村上氏自身が、阪神大震災に大きなショックを受けたのでしょう。だから、こんな異色の短編集が生まれたのだと思います。

 ところで、これらの短編集の中でも特に異質と言えるのは、本のタイトルにもなっている「神の子どもたちはみな踊る」でしょう。なぜ異質かといえば、この短編の中で「神」が中心テーマとして据えられているからです。村上氏がその小説の中で「神」を持ち出すこと自体、極めて異例と言えます。

 数々のノーベル文学賞作家をフィーチャーしてきたトム・マシュラーという方が先般来日した際のインタビューの中で村上春樹氏の魅力について問われたときに、次のように述べています。

「全く宗教に訴えずに、人間の深い精神の面を扱っている。世界的に受け入れられているのもそのためだ」

 私はこの指摘は、村上春樹氏が様々な国々で共感を得ている理由の真実をある意味で突いているとは思います。しかし、その大きな例外とも言えるのが、この「神の子どもたちはみな踊る」でしょう(もちろん、『アンダーグラウンド』のようにノンフィクションの中でオウム真理教による事件に向かい合ったことはありますが、フィクションにおいて「神」に訴えたような例はほとんど見られないと言ってもよいでしょう。)。

 なぜ村上春樹氏が物語の中で「神」に言及せざるを得なかったのか。おそらく、村上氏は阪神大震災から計り知れないくらい大きな影響を受けたに違いありません。

 「かえるくん、東京を救う」に登場する「かえるくん」や「みみずくん」も、ある意味では神様の化身と言えるでしょう。阪神大震災という未曾有の大惨事を受けて、村上氏は何か得体の知れない力が動いていることを感じ、その力を考える上で、単に自然現象と切り捨てることのできない何らかの動きを感じたのかもしれません。それが「かえるくん」や「みみずくん」という形で表現されていると捉えることができるような気がします。

 村上春樹を論じる上で、おそらくこの短編集をどう位置づけるかはもっとも難しいテーマとなるような気がします。