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G・ガルシア=マルケス「予告された殺人の記録」

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

 ノーベル文学賞を受賞しているガルシア=マルケス自らが、自分の最高作と呼んでいる作品です。この作品のモデルとなる事件が1951年1月22日に起こっており、その事件の場所はマルケスが住んだこともある町だそうで、マルケスはこの事件のルポタージュを書こうとしたところ、身内や知人が事件に関わっていたことから母親に反対されたため、関係者の多くが故人となってから小説家されたとのことです。したがって、作品もルポタージュ風なものとなっており、<わたし>が関係者から証言を得ながら事件を解明していくというスタイルとなっています。

 凄惨な殺人事件の舞台となった町では、事件前日に婚礼が行われていた。それは、婚礼の6カ月前にその町にやってきた男バヤルド・サン・ロマンと、町に住む盲目の彫金師を父親に持つ娘アンヘラ・ビカリオとの婚礼であった。婚礼は盛大に行われ、2人は初夜のために新しく購入した屋敷に入っていく。ところが、思いがけないことに、バヤルドはアンヘラを即座に実家に戻してしまった。アンヘラは生娘であると信じられていたが、実はそうではなかったのだった。

 アンヘラの双子の兄弟パブロとペドロは、怒りに身を震わせながら、アンヘラに「相手が誰なのか教えるんだ」と問いただす。アンヘラの挙げた名前はサンティアゴ・ナサールというアラブ系の男だった。

 婚礼が行われた翌日、サンティアゴは、司祭が船で町に着くのを見るため、朝早く家を出た。結局、司祭は船から降りることなく、すぐに去っていってしまったのだが、アンヘラの名誉回復を企てるパブロとヘドロの兄弟は、サンティアゴを豚の屠殺用ナイフを使って襲い、滅多刺しにする。致命傷を負ったサンティアゴは、腸が飛び出したまましばらく歩いた後、力尽きて倒れる・・・。

 こうして見ただけでは、この事件の異常性は浮かび上がってきません。重要な点は、この殺人事件が起こることを町の多くの人々が知っていたという点です。パブロとヘドロの兄弟は、事前に多くの人々に、これからサンティアゴを殺しに行くことを話しています。にもかかわらず、様々な偶然が重なって、結果的に、町の人々はこの凄惨な殺人を止めることができなかったのです。

 人々が止められなかった理由として、様々な偶然が重なったということもあるのですが、この作品の中で匂わされているのは、実は人々はこれから殺人が起こることを予測しながら、それをあえて止めなかったのではないか、というニュアンスです。誰もが事件阻止のために真剣に動こうとはせず、むしろ、その犯行が起こることを“期待”していたのではないか、そんなニュアンスさえ醸し出されています。訳者である野谷文昭氏が解説の中で触れられているように、殺されたサンティアゴは“犠牲の山羊”(=スケープゴート)だったとさえ言えます。殺されたサンティアゴはアラブ系移民の父と由緒ある家柄の母の間に生まれ、家には賄い婦がいる富裕な家庭で育ち、若くして父の牧場経営を引き継いでいる。そんな恵まれたサンティアゴを犠牲の山羊にした共同体の心理が大きくクローズアップされてきます。

 それから、野谷氏も述べているとおり、アンヘラを実家に戻してしまったバヤルドは、共同体の外部から侵入する<近代>の象徴として描かれている点が注目されます。バヤルドはT型フォードに乗ってやってきます。鉄道技師であるというバヤルドは、鉄道の敷設の必要性を説いたりするなど、近代化の要素を町に持ち込む人物として描かれています。婚礼の相手のアンヘラの父親が庶民相手の彫金師であったこととは対照的です。手に入れたい屋敷があれば大金を積んで手に入れてしまうという点は、資本主義の象徴として描かれているようにも見受けられます。

 このように、この作品の中では、共同体の持つ<前近代>的な要素、そして<近代>の要素が共同体に忍び込むことによって起こる<近代>と<前近代>との間の軋轢を我々に突きつけます。殺人事件がもたらす非日常性を期待する共同体は、明らかに<前近代>を象徴しています。<前近代>で安定性をかろうじて保っていた社会が、<近代>の侵入によって歪んだ帰結をもたらしてしまったのです。

 我々から見れば、共同体が持つこうした<前近代>の側面は、ひどく野蛮な行為のように映ることになるわけですが、実は、今日の共同体も本質的に同じような側面を持っているのではないかと思います。共同体は常に“お祭り”が起こることを期待し、“お祭り”によって共同体が維持されているという面もあるのではないかと思います。そうした事実を、この作品は我々の眼前に迫力をもって突きつけてくるのです。

 文学の持つ力を見せつけられた作品です。