- 作者: フランシスウィーン,Francis Wheen,中山元
- 出版社/メーカー: ポプラ社
- 発売日: 2007/09
- メディア: 単行本
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本書は3つの章から成り、第1章ではマルクスが『資本論』に辿り着くまでの生い立ちや経歴が紹介されていますが、やはり圧巻なのは第2章です。
商品には使用価値と交換価値という二面的な性格があるとした点や、商品に貼り付く物心崇拝(フェティシズム)などが分かりやすく論じられていますが、やはりマルクスの思想の一番のポイントともいえる搾取の構造についての説明が大変分かりやすく論じられています。簡単にまとめると、以下のような感じです。
経済がそれほど発展していない社会では、労働者はすべての価値を獲得することができる。ところが、産業資本主義においては、貨幣(G)―商品(W)―貨幣(G)という商品の循環によって「剰余価値」が生じ、このことによって貨幣が資本に変貌していく。そして、資本家は、「剰余価値」を容易に手にすることができる独特の商品である「労働力」を所有することによって、労働者から生み出される剰余価値を搾取していく。つまり、労働者に生存のために必要な量以上の労働をさせる「剰余労働」から、資本家は利益を得る。そして、機械が利用されることで、労働者はますます資本に隷属するようになる・・・。
そして、最後の章である第3章では、『資本論』が後世にどのように受容されていったかについて書かれています。マルクスが予測していなかったロシアという土地でこの理論が革命の源泉となったこと、それから、西欧においては、グラムシやフランクフルト学派によって、マルクスが「上部構造」と呼んで比較的軽視された文化や制度や言語などの重要性がはるかに重視されたことなどが大変分かりやすく書かれています。
資本主義の偉大な擁護者であるシュンペーターや、資本主義のシステムを最大限利用したジョージ・ソロスといった面々が、マルクスの業績を評価しているという点は、あまり知られていない事実でしょう。意外であることには間違いないのですが、ただ考えてみれば、マルクスはあくまで資本主義を分析の対象としてきたわけですから、資本主義がより幅をきかせていけばいくほど、マルクスの存在意義も高まっていくのだという逆説的な見方もできるといえそうです。
『ニューヨーカー』の1997年10月号の記事の中で、経済記者のジョン・キャシディは次のように結んでいるとのことです。
「マルクスの著作は、資本主義がつづくかぎり読む価値がある」(p163−4)
マルクスの今日的意義をこれ以上的確かつ簡潔に述べることはできないでしょう。
私もマルクスの思想が今日においてより一層高まっているという見方には基本的に賛成です。前世紀の終わりに社会主義国家が次々と崩壊していったことから、マルクスの思想(特にマルクス経済学)は大きな打撃を受け、かつてフランシス・フクヤマが述べたように、もはやイデオロギー対立は終焉したかのような風潮が世界を覆ってきました。そして、ライバルのいなくなった資本主義は、我が物顔で世界中を闊歩してきたわけです。しかし、こうして資本主義の論理を思う存分に拡張していったおかげで、アジアの通貨危機など資本主義の限界が露呈することにもつながり、逆にマルクスの思想が見直される土壌が出来上がりつつあるというのが今日の状況であるような気がします。
確かに、プロレタリアートが窮乏に至るというマルクスの予言ははずれたかのようにも見えますが(サミュエルソンは労働者の貧困化はまったく起きなかったのだから、マルクスの傑作は完全に無視してもよいと主張したとのこと)、しかし、確かに絶対的な賃金の低下は起こっていないものの、労働者はますます資本に縛り付けられていると著者は主張します。
「一九七〇年代には「レジャー時代」が近づいていると予言されたものだった。オートメーションのおかげで、誰もほとんど働く必要がなくなるというのだった。そして人間が救いのないほど無気力にならずに、余暇を過ごすにはどうすればよいかという問題とめぐって、多数の本が出版されたものだった。いま古書店でこの流行遅れの本を手にしてパラパラと読んだ人は、目を疑って笑いだすにちがいない。イギリスの平均的な労働者は今では、一生で八万二二四時間も働いている。一九八一年にはわずか六万九〇〇〇時間だったのである。労働者としての倫理を失うどころか、わたしたちは以前にもまして労働の奴隷になっているかのようである。」(p82−3)
近年、我が国でも「ワーク・ライフ・バランス」が深刻な社会テーマになっていますし、長時間労働者の割合が諸外国に比べて高いことも指摘されています。マルクスの問題意識は時代遅れというわけでは全くないのです。
これまであまりマルクスになじみがない方がいきなり『資本論』を手にしてもおそらく挫折することは目に見えていますし、今日において別に『資本論』を隅々まで読み込む必要はないと思われますので、関心のある方は是非、まずこの本を手に取ってみてはいかがでしょうか。