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油井正一「生きているジャズ史」

 

著者は日本のジャズ全盛期を支えた評論家ですが、20年近く前に亡くなられています。もともとは雑誌の連載をベースに1959年に刊行された『ジャズの歴史』という本がベースで、1988年に復刊された同名の本が底本となっているようです。

 

ディキシーランドからスイング、ビバップというジャズの流れに沿って、論評が並べられています。数々の評論の中で、印象的だったものを、以下、いくつか取り上げてみたいと思います。

 

まずは、油井氏がビックス・バイダ―ベックと、ビックスにトランペットを教えたエメット・ハーディというトランぺッターを評価している点。エメットは1903年に生まれ1925年に亡くなっているようなので、22歳くらいで亡くなっている計算です。吹き込んだレコードが1枚もなかったことから、歴史からは忘れられた存在となってしまいましたが、ビックスを見出し、奏法に大きな影響を与えたようです。こうして埋もれてしまったジャズ・ミュージシャンたちはたくさんいるということでしょう。

 

それから、フランスのユーグ・パナシエという評論家への鋭い反論。パナシエという人は、強烈にバップを批判しますが、こうしたバップ批判を被害妄想として切り捨てます。油井氏は、ジャズの本質について、進歩とか後退といったような見方を否定し、次のように述べています。

「音楽の本質というものは変わらない。そして、そのうえに世相や生活感覚をうつしたファッションでお化粧をほどこしたものが、そのときどきに応じて現れてくる」

また、大橋巨泉氏が当時述べていた「ファンキー論」についての批判も興味深いものです。大橋氏は「ファンキー」について、「ユーモラスで、ブルーな」という気分や雰囲気を表しているというような言い方をしているのですが、油井氏に言わせれば、「ファンキー」とは「黒人くさい」という意味で、ユーモラスというような意味はこれっぽちもないということです。しかも、ファンキーと呼ばれるモダン・ジャズには、教会音楽的な要素が見られるとのことで、とてもユーモア精神とはかけ離れたものだと主張しています。

 

そして最後に、マイルス・デイヴィスの『ビッチェズ・ブリュー』への賛辞です。油井氏は、このアルバムを試聴した際、「歴史を揺るがす傑作ついに出ず」というタイトルで論稿を書いたそうです。油井氏によれば、このアルバムは、アフリカ固有の複合リズムと電化サウンドという特徴があり、このサウンドを運び出す土台としてのリズムは、1960年代を通じてあらゆるミュージシャンが探求し続けたものの集大成となっているとのこと。

「この多彩なポリリズムは、一見ロックに似て非なるものであり、いろんな形のスイングを包含しています。総括的にこれらのリズム・フィギュアは、大きなサイクルを描いて回転し、サウンドを前へ前へと押し進めていきます。こうしたポリリズムは、マイルスの創案のように見えてそうではなく、遠くヴ―ドゥーに発していることは、前に述べた通りであり、多くのフリー・ミュージシャン同様、マイルスもまた、大昔の黒人ルーツを見直す「先祖返り」によって、伝統に結びつけながら、もっとも新しいサウンドのヴィークル(車輪)としたものであります。」

もちろん、このアルバムに対する反対論も強かったことは周知の事実であります。油井氏も、その後、考え方を修正されていったようで、本書の最期では、フォー・ビート・ハード・バップこそジャズ発展の究極ではなかったかと述べるとともに、成長には限界があり、頂点を極めたあとは、衰微に向かいものだと述べています。さらに、当時のフュージョンについて触れながら、

「でもこの辺で一本の線を引いた方が、ジャズという音楽の全体像がスッキリと掴めるような気がするのです。」

とさえ述べています。

 

50年代、60年代の知識人たちが、ジャズという素材を使いながら、あれこれと議論を繰り広げている様子が、本書からは伝わってきます。良し悪しは別にして、ジャズを題材にここまで議論ができた時代をうらやましくも思います。

 

他方で、現在の視点から見ると、なぜこんな議論を繰り広げなければならなかったのか、という疑問は本書を読んでいる過程で常に付きまといます。先に紹介したいくつかの主張を見てみても、だからどうなの?という冷たい視線で見てしまう自分が心のどこかにいることは否めません。

 

そういう意味で、文庫版の解説を書いている菊地成孔氏の文章は大変興味深いものです。これはあくまで私の受け止め方に過ぎないのですが、菊地氏は、一見、油井氏に対して敬意を表しているのですが、書いている内容を見ると、油井氏の評論に対して極めて冷めた視線に満ち溢れているような気がするのです。

菊地氏は、油井氏らの後のジャズ世代を「団塊以降」として、以下のとおり、完膚なきまでに切り捨てています。

「筆者は個人的に、60年代の「政治の季節」に、左翼運動と共にフリー・ジャズを原体験的に経験し、ジャズ喫茶通いをしながらジャズを学び、ジャズ評論家に成った者共、つまり「団塊以降」の言葉は、1文字も信用する必要は無いと思っている。」

対照的に、菊地氏は、油井氏のように戦前からジャズを聴いて勉強してきた世代は「ジャズの芯を喰らえている世代」として、「団塊以降」とは一線を画して敬意を表しているように見えます。

 

他方、菊地氏は、油井氏が本書で、ジャズがリアルに外界と繋がって進化していると書き始めているものの、世界の変化についてどんどん触れなくなってゆくことをアイロニカルに指摘します。

また、油井氏が、1960年代の様子について、エレキにしびれた若者がボサノバを経由してジャズに目覚めたと述べていることについても、「牧歌的」と評しています。

さらに、油井氏の最期の結論、すなわち、ジャズをハードバップ辺りで線を引くべきという結論について、菊地氏は、次のように述べます。

「どれだけ優れた一個人であろうと、一個人が「生きている歴史」という化け物に対峙する際、老境に入った時に生じざるを得ない誤謬である。」

このように、菊地氏は、油井氏も含めて、過去のジャズ評論家全体について、どこか冷めた目で見ているように私には思えるのです。こうして菊地氏の解説まで含めて読むと、本書は、ジャズの歴史とともに、ジャズ評論家の筆の勢いが徐々に衰えていく歴史であるかのようにも思えてしまいます。

 

というわけで、本書を解説まで含めて読み通した後、油井氏の評論の内容はどこかにすっ飛んでしまい、菊地氏の鋭いジャズ評論ばかりが脳裏に残ってしまうことになったのでした。これも悲しい現実なのかもしれません。。。