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マイケル・ルイス「フラッシュ・ボーイズ」

フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち

フラッシュ・ボーイズ 10億分の1秒の男たち

 これまで読んだマイケル・ルイスの2冊が大変面白かったので、本書も手にとって読んでみました。ブラックボックス化した証券取引所の中で、超高速取引業者が顧客の注文をナノ単位で先回りして、確実に利益を手にしているからくりを暴き出している著者の取材力と筆力に脱帽します。

 カナダロイヤル銀行のブラッド・カツヤマは、さっきまで画面上に存在した売り注文が、買いのボタンを押した瞬間に消えてしまうことに気がつきます。カツヤマは、市場が不正操作されているのではないか、という疑問を持つことになります。誰かが先回りしているのではないかとカツヤマは考えます。

 当時、トレーダーは、お金を払ってでも、株式市場に注文を送る自分のコンピューターの位置を、取引所に近づけることに腐心していました。したがって、ウォール街との近接性を売りにするサービスが出てくるわけです。そして、こうしたサービスの提供に貢献できる技術者がウォール街で重宝されます。市場の役割からすると直感的に不健全な感じが否めません。

「今やアメリカの証券市場には、スピードを基盤として、持つ者と持たざる者の階級構造ができていた。持つ者はナノ秒のために金を払い、持たざる者はナノ秒に価値があることを知りもしない。持つ者は市場の完全な姿を堪能し、持たざる者は市場を目にすることさえかなわない。かつては世界で最もオープンで、最も民主的だった金融市場は、盗品の芸術作品を集めた内輪の鑑賞会のようなものになり果てていた。」(p93)

 こうした金融市場の状況の中で、2010年5月、いわゆるフラッシュ・クラッシュが起こります。これといった理由もなく、市場が10分足らずで600ポイント下げ、その後数分間で前よりも高い水準まで反発したのです。それは、マイクロ秒単位の取引の中で起こったことであり、誰もその原因を把握できない状況だったのです。

 超高速取引業者の行為は、ある意味、合法的なものでした。通称Reg NMSと呼ばれる規約では、ブローカーは株の売買の注文を依頼された顧客にとって最良の市場価格を見つけることを求められていました。

「この新た強い規約の施行にともなって、全米のあらゆる銘柄のビッドとオファーを一つの場所に集約し、市場全体を見極めて、全米ベスト・アンド・オファーを作り出すメカニズムが必要になった。」(p128)

 その場所はSIPの略称で知られるようになり、株式市場の価格はSIPへと流れ込むようになります。

 ところが、この規約にはSIPスピードについての設定がありませんでした。このため、超高速取引業者がSIPよりはるかに高速で精巧なバージョンを構築しても、それを禁止する規則はなかったのです。

「Reg NMSが作られた目的は、アメリカの株式市場に機会の均等をもたらすことだった。ところが逆に、この規制によって不平等が制度化されてしまったのだ。スピードを生む資源を持った少数のインサイダーが、他者より先に市場を見て、それをもとに取引できるようになってしまったのだ。」(p128-129)

 つまり、あたかも一人のギャンブラーだけが結果を知っていて、その男が結果を知っていることについて誰も知らない、といったような状況が、規制によって生まれてしまったのです。

 ブラッドは、こうした状況に対抗するために、超高速取引業者が利益をくすねることのない公平で透明性の高い市場を作り出し、そこに投資家が注文を流すように選んでくれるような新しい取引所の創設に向けたチャレンジを始めます。

 ブラッドの取組を怪訝に見つめるウォール街のプレイヤーが大半の中、ゴールドマン・サックスはブラッドの市場に取引を送ることを決断します。こうしてブラッドの取組は、徐々に市場関係者の理解を得ていくことになったわけです。


 本書は技術的なテーマであることもあり、私も必ずしも十分に理解ができたわけではありませんが、ただ、多くの読者が直感的に感じたと思われるように、市場がブラックボックス化してしまったことで、一部の者が誰にも気付かれずに利益をせしめることができる構造になってしまったということが分かります。

 本書で取り上げられている事例の中に、ゴールドマン・サックスの元従業員で、ロシア系ユダヤ人のセルゲイ・アレイニコフが、同社所有のコンピューター・コードを盗んだ罪でFBIに逮捕された事例があります。
 この事例は、結局、米国の経済スパイ法違反に該当しないということで無罪となり、法の抜け穴を塞ぐために新たな立法措置が講じられたということで一般的には知られている事案ですが、本書での取り上げられ方は少し違っています。
 FBIに通報したのはゴールドマン・サックスの行員でしたが、結局、この行員もFBIの捜査官も、超高速取引のことも、セルゲイが持ち出したソース・コードのことも、何も知らなかったという点に注目しています。そのコードは、ゴールドマン・サックスのプラットフォーム用に書かれた限定的なものであり、新たなシステムを構築する際には全く役に立たないものだったのです。

 このセルゲイのエピソードから見ても分かるように、とにかくこの分野はブラックボックス化されてしまっているわけです。

 なお、本書の解説で、日本の市場においても同様の問題があることが指摘されているのは、気になるところです。

 それにしても、マイケル・ルイスの著書はいずれも刺激的でよく取材されていて感心してしまいます。