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橘木俊詔「いま、働くということ」

いま、働くということ

いま、働くということ

 「仕事への意欲、適度な余暇、働かないという選択・・・哲学・思想はどう語り、人間はどう応じているのか。」

という売出し文句を見て、久々に正統派による労働論・余暇論が出たか、と思い早速購入しました。

 第1章「偉人は働くことをどう考えたか」では、古代ギリシャの労働観からキリスト教的労働観、近・現代的労働観の変遷がまとめられています。

 第2章「人間にとって余暇とは」では、経済学における余暇の位置付け、トーマス・モアウィリアム・モリスの労働観・余暇観、さらにソースタイン・ベブレンやデュマズディエなどの余暇観が取り上げられています。

 第3章「働くことって意義あるのか」では、働くことに生きがいを求める考え方に対する批判的見解と、働くことに意味はないという考え方に対する共感が述べられています。

 第4章以降は、女性の労働などについて論じられています。


 率直に言えば、労働観、余暇観についての深遠な思想が本書で論じられていると期待しすぎるとやや拍子抜けかもしれません。

 戦後の日本社会では、1960年頃を境とするレジャーブーム以降、極めて精力的に余暇やレジャーが論じられた時期がありました。この時期の余暇論は哲学的な観点から奥深い余暇論が展開されたのですが、しかしながら、本書ではそのことについてほとんど触れられていません。なぜ戦後日本社会のある時期に余暇論が盛り上がり、それがやがて廃れていったのか、この点にこそ余暇を論じる難しさが表れているはずなのですが、本書では、

「私自身は、少なくとも労働時間が短くなって、人の余暇時間が長くなることは非常に好ましいと判断するが、その余暇時間をどう使うかは、個人によって全く自由であるべきと思う。他人がどう使えと論じることや、どう使うことが「文化社会」にふさわしい姿である、などと論議することは避けるべきだと思う。」

の一言で済まされてしまっています。

 私もこの見解に反対するつもりはないのですが、実際、戦後の日本社会では、“余暇の善用”について極めて真剣に論じられてきました。労働に負われていた近代の大衆が突如として余暇を与えられた時、果たして大衆は余暇をうまく活用することができるのだろうか?という問いは、当時の知識人たちにとって大変大きな問題だったわけで、だからこそ余暇論が真剣に論じられていたわけです。

 エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」の中で論じているように、大衆に自由が与えられても、それが自由と対極に位置すると思われる全体主義へと向かっていってしまうような状況すらあり得るわけです。

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版

 だから、余暇は個人個人の自由に任せておけばいいではないか、という著者のような帰結にたどり着くまでには、やはりそれなりの思考の足跡が認められるべきだと思うのです。それが自明なことでは決してないのです。


 他方、著者の指摘の中には、極めて共感できる部分も多々あります。

 それは、すべての人が必ずしも労働から喜びをもたらされるわけではなく、最低限の労働を行った上で余暇において別の喜びを感じる選択肢があってもよいのではないか、と述べている点です。

 現代社会は、ウィリアム・モリスの労働観・余暇観のように、労働にこそ生きる意味を求めようとする見解が強いように思います。しかし、かつてガルブレイスが指摘したように、労働には、強制的な働きと報酬と快楽の源泉という2つの意味があり、それらに対して「労働」という一つの言葉が充てられているところに欺瞞があると言えます。

「「労働」には二つの意味がある。一つは、強制される働き。もう一つは、人もうらやむ威信と報酬と快楽の源泉としての働き。まったく違う二つの事柄に同じ言葉を充てるのが、欺瞞であることは言うまでもない。」ガルブレイス『悪意なき欺瞞』

悪意なき欺瞞

悪意なき欺瞞

 だから、著者の指摘するように、何も労働から得られる喜びを全ての人が求める必要はなく、最低限の労働の上で余暇に生きがいを求めたってよいわけです。この点は、著者の意見に共感します。

 いずれにせよ、今世紀に入って全く論じられる気配がなかった余暇ですが、ようやく論じられる雰囲気が醸成されて来たことは大変良いことだと思います。

 人間社会はどの程度働くべきか、というテーマは永遠のテーマであるはずで、それを論じるためには、やはり余暇とはどういう意味を持つのか、というテーマを避けて通ることはできません。

 その点では、こうしたテーマを正統派の学者が論じることは、大変歓迎すべきだと思います。