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打海文三「一九七二年のレイニー・ラウ」

一九七二年のレイニー・ラウ (小学館文庫)

一九七二年のレイニー・ラウ (小学館文庫)

 著者は2007年に心筋梗塞で亡くなられた方です。著者の作品は初めて読んでみたのですが、どの短編も読めば読むほど味が出る奥深いものばかりです。

 表題作の「一九七二年のレイニー・ラウ」は、主人公の佐伯が25年前に出会った中国の女性レイニー・ラウと、自分の娘と一緒に香港で再会する話。レイニー・ラウは文化大革命の時代を生き抜いてきた心の強い女性。佐伯は娘に誘惑されどきりとする。

 「路環島(コロアネ)島にて」は、旅先のマカオで日本人の熟年の男女が出会い、ひとときのぎこちない恋愛をする話。男は幼少の頃に従兄弟のお姉さんに欲情し、成人になってから関係を持ったという話を告白する。

 「満月の惨めで、かわいそうな」は、娘がかつてふられた男がバイクで死亡したという記事を見つけた母親が、テコンドー教室の若い女性の先生と一緒にその男の通夜に行くと、そこには関心なさそうにしていた娘がいたという話。母親とテコンドー教室の先生はかすかに心を寄せ合っている。

 「花におう日曜日」は、やくざの男が借金取り立てのためにある家庭に赴いたところ、主人は留守で奥さんが対応するが、実は主人は2階で殺されていたという話。

 「胸がいたい」は、観光で韓国を訪れ、女の子から声をかけられたという話。主人公の友人は、母親の遺品の韓国の歌の入ったレコードから、母親が父親と結婚する前に別の男と付き合っていたと想像する。

 「ここから遠く離れて」は、東京から離れた街に移り住んだ作家の主人公が、背中の美しい女性と出会う話。その女性は主人公の書いた作品に出てくる女性の生き方に共感している。その作品の主人公であるその女性の息子は、母親を性的に意識している。


 以上から分かるように、いずれの作品もいわば歪んだ恋愛を多かれ少なかれ内包しています。近親相姦や同性愛的なにおいがいずれの作品にも漂っているのです。

 著者はあとがきの中で次のように書いています。

恋愛小説を書いてみたいと思うなら、あなたが<出逢えなかった人>について書けばいい。実人生では不可能だった出逢いを、出逢えたかもしれないという可能性として、虚構のなかで救い出そうと試みるなら、そのまま恋愛小説になるだろう。

 つまり、著者は非日常的な恋愛をあえて題材として取り上げて、これらの短編を書いているのです。しかも、これらの歪んだ恋愛は決しておどろおどろしいものではなく、いやらしさを感じさせないほどさらっと描かれており、読む側にこれなら本当にあってもおかしくないなと思わせる説得力を持っています。

 著者はキャラクターをひたすら考え抜いて書くタイプの作家のようで、およそ年間に一冊の本しか出さなかったようです。本作品のキャラクターも例の漏れず実に周到に練り上げられた上で描かれているという感じで、だからこそ、読む側に対して説得力を持っているのでしょう。

 解説を書かれている池上冬樹氏が述べているように、これらの短編の中でも「ここから遠く離れて」は、著者自身を主人公に投影して、著者の世界観を表したものといえ、大変興味深い作品です。

 著者の他の作品も読んでみたいと思わせる短編集です。