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映画、書評、ジャズなど

辻原登「許されざる者 上・下」

許されざる者 上

許されざる者 上

許されざる者 下

許されざる者 下

 日露戦争の時代、紀州の熊野を舞台に繰り広げられる物語です。ちょうどNHKで『坂の上の雲』のドラマが始まったところですが、この『許されざる者』は『坂の上の雲』とは全く異なった目線で描かれた物語です。

 主人公のドクトル槇はアメリカやインドで医学を学んできた医者で、紀州・熊野の森宮の町では尊敬を集める存在です。時代は日露戦争前夜で不穏な空気に包まれており、開戦の是非を巡って論争が闘わされていた時代です。ドクトル槇は日露戦争には反対の立場でしたが、脚気の原因を栄養不足によるものであることを見抜いていた槇は、日露戦争開戦後に戦場に赴き、脚気患者の治療に当たります。

 当時日本では社会主義思想が広まってきており、森宮の町でも急進的な思想が芽生えつつありました。槇の周りにもそんな分子が集い、議論を繰り広げており、槇は警察当局から目を付けられることになります。

 槇には千春という美しい姪がおり、千春の従兄弟の勉は千春に気を寄せているものの、体を悪くしており、恋を打ち明けるのに躊躇しています。また、槇自身も元藩主の家柄の永野家に嫁いでいるその妻に密かに思いを寄せており、そのことが槇を苦しめることになります。

 日露戦争終結後、森宮の町では騒擾が起こり、鉄道が爆破されるのですが、槇も爆破の密談が行われたとされる船上にいたとして警察に拘束されます。しかし、槇は実はそのとき、永野の妻と密会していたのですが、それを言えば彼女に迷惑をかけることになるため、アリバイを証言できません。結局、槇は別の女性と密会していたということで釈放されます。

 千春に思いを寄せていた従兄弟の勉は、やがて体調を崩し、最後、森宮の地で命を落とします。

 槇は再びアメリカに渡米することが決まったところで物語は終わります。永野夫人は、槇の子供が生まれた後、槇を追って渡米することになっている。。。


 この物語は大逆事件で刑死した大石誠之助がモデルのフィクションのようですが、森鴎外田山花袋ジャック・ロンドンといった実在の人物もうまく登場させているなど、リアル感が醸成されています。脚気を巡り、病原菌説を唱える森鴎外と栄養不足説を唱える槇との間の心理的な葛藤もリアルに描かれています。日露戦争中のロシアの革命の動向やレーニンらの思想とそれが日本の革命家たちに与えた深い影響もうまく描かれています。

 そして、何よりもこの作品の注目すべき点は、我々日本人の圧倒的多数が抱いている日露戦争史観に対する強力なアンチテーゼとなっている点でしょう。

 我々日本人の多くは司馬遼太郎の『坂の上の雲』に基づく日露戦争史観を持っています。『坂の上の雲』は当時の軍人たちがいかに日本という新興国家を守るために尽力したかを克明に描いた力作であることは間違いありませんし、私自身『坂の上の雲』を十数年前に読んだ際は、頭がボーッとするくらいの感銘を受けました。

 しかし、この『許されざる者』を読んでみると、日露戦争に対する見方は何も『坂の上の雲』のような視点ばかりではないということをはっきりと認識させられます。もちろん『坂の上の雲』の司馬史観とこの作品の見方がパラドクシカルであるということではなく、両者は整合的であると言えるかもしれません。ただ、『許されざる者』を読み終えてみると、『坂の上の雲』を読んだだけで日露戦争の時代における日本人の感情を理解したつもりでいた自分に対して恥ずかしさを覚えたのも事実です。

 ある文化人が、「司馬遼太郎作品は確かに良いが、司馬遼太郎で止まってしまっては駄目だ」、という趣旨のことをどこかで言っていたのを記憶していますが、その意味が分かったような気がしました。

 NHKで『坂の上の雲』が映像化されつつある今こそ、この『許されざる者』は必読の書と言えるのではないでしょうか。