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磯粼憲一郎「終の住処」

文藝春秋 2009年 09月号 [雑誌]

文藝春秋 2009年 09月号 [雑誌]

 芥川賞受賞作品で、文藝春秋に掲載されています。現役の三井物産社員ということで何かと話題の作品です。

 30歳を過ぎて結婚した夫婦。新婚旅行の時から妻は不機嫌で、やがて離婚を決意しようというそのときに、妻の妊娠が発覚し、娘が誕生する。しかし、夫婦の関係はその後もぎくしゃくし続け、家族3人で遊園地の観覧車に乗って以来11年間、夫婦は会話を交わさなかった。この間、製薬会社に勤める夫は数々の女性と不倫を重ねる。

 しかし、会話が途絶えてから11年経ったある日、夫は妻と娘に対して家を建てることを伝える。遊園地で最後に交わした会話は不思議と昨日のことのように感じられた。やがて夫は、買収を狙う企業との交渉のためにアメリカに飛ぶ。ようやく買収交渉がまとまって帰国すると、娘は去年からアメリカに行っていることを妻から聞かされる。夫はこの先死に至るまで妻と2人で過ごすことを知る。それはもはや長い時間ではなかった・・・。


 磯粼氏によれば、本書は友人からの話に着想を得ているとのこと。その友人は奥さんと危機的な状況になってやはり11年間家で食事をとらなかったものの、その後和解して、今では普通に幸せに暮らしているとのことで、これに感動したのだそうです。

 さて、本書を読んだ感想ですが、第一にとにかく読みやすいというのが率直な印象です。ややこしい言い回しは一切無く、読者をしてあっという間に読ませてしまうほどの筆力を持った文章です。

 かといって単調な物語というわけではなく、途中挟まれる数々のエピソードは、読む人を飽きさせない工夫が感じられます。沼の上空で爆音を轟かせる自衛隊機の話、取引先の係長を腕相撲で負かしてしまった話、不倫相手の生物の教師が話すイグアナのエピソードなどなど、いずれも物語との関係でいかなる脈絡があるのかと言われると考え込んでしまいますが、それはそれで物語に一定のスパイスを与える効果があります。

 ところで、芥川賞といえば、審査員の選評が楽しみなのですが、興味深かったのは、2人の選者が本作品をガルシア・マルケスの作品になぞらえているところです。宮本輝氏は本作品をマルケスになぞらえながらも、本作品はその目論みが成功していないと受け止めているのに対し、池澤夏樹氏は肯定的に受け止めているという違いがあるのもまた興味深い点です。

 石原慎太郎氏は、相変わらずの毒舌で本作品を以下のように酷評しています。

「受賞作となった磯粼憲一郎氏の『終の住処』は結婚という人間の人生のある意味での虚構の空しさとアンニュイを描いているのだろうが的が定まらぬ印象を否めない。これもまた題名がいかにも安易だ。」

 石原氏の見解にあえてコメントすれば、私は少し違った捉え方をしました。本作品が結婚という虚構を1つのテーマとしているとの指摘は説得的のようにも思えますが、本作品ではむしろ結婚という虚構から夫婦は逃れられないという意味で、結婚は単なる虚構以上の実体を備えたものという捉え方をしているのではないかと思います。

 そして、結婚が「アンニュイ」というのは本作品を表す適切な表現だと思います。本作品中、夫は妻の不機嫌を説明する手がかりを探そうと、妻の不倫を疑うものの、結局手がかりを見つけ出すことができず、それがかえって夫をがっかりさせることになります。

「妻は浮気をしているのかもしれない、そんな疑念を裏付けるためにの証拠のかけらすら見つけることはできなかったが、それはそれで彼をがっかりさせた。もし妻に別の男でもいるのであれば、いま彼を取り囲んでいる事態、正確にいうならば彼自らが入り込んだものの抜け出せなくなってしまったこの事態をもっとも単純に説明することもできたのだろうから。」

 この辺の心理描写は絶妙です。結婚というアンニュイな中に置かれた夫婦の心境を実によく描写しているように思います。

 毎度のことながら、受賞作に対する厳しい超えも選評から見受けられますが、私はこの作家の筆力から今後も素晴らしい作品が生まれるのではないかと期待したいと思います。