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小泉文夫・團伊玖磨「日本音楽の再発見」

日本音楽の再発見 (平凡社ライブラリー)

日本音楽の再発見 (平凡社ライブラリー)

 民族音楽学者の小泉文夫氏と作曲家の團伊玖磨氏との間の刺激的な対談です。
 初出は1976年10月ということですから、そのときの小泉氏は49歳、團氏は52歳ということになります。お二方とも、今日では故人となられていますが、特に小泉氏は1983年に50代半ばという若さで急逝されています。お二方の対談は、今から30年以上も前のものでありますが、今日の音楽状況にも十分過ぎるほどの示唆を与えてくれる内容です。

 この対談では、小泉氏と團氏の日本の音楽状況についての問題意識がぴったりとかみ合っているところに心地よさが感じられます。その問題意識というのは、明治以降の日本の音楽が西洋一辺倒になっているという認識です。

 小泉氏は、冒頭の短い論考「日本音楽の現状をどう見るか」の中で、問題意識を4つのポイントで説明されています。

 第一は、音楽教育に関する問題です。音楽文化というのは本来、言葉や身体的運動、自然環境、歴史的風土、社会的習慣など、民族の文化全体と密接な関係の中で育ってきているはずなのに、明治以来、そういうことはほとんど考慮されずに、西洋音楽を基本とする音楽教育が国家規模で行われてきた、これは黙っていられない問題だという点です。

 第二は、音楽芸術あるいは音楽文化の発表の場が演奏会という形式をとっているという点です。ステージで演奏できる音楽家は何万人に一人かもしれず、それ以外の大多数のひとたちは犠牲になっているわけで、演奏会形式が音楽文化を高めていく上でどれほど必要かということに、小泉氏は疑問を呈しています。

 第三は、音楽の創作活動についての不満です。日本の作曲家は日本の素材の分析的研究を行っておらず、せっかく日本固有の素材を活用する場合であったとしても、西洋からのテクニックによって作品を作ることによって生かされなくなってしまう、というのが小泉氏の不満です。

 第四は、マスコミに対する注文です。つまり、日本のマスコミはあまりにも欧米の後を追いすぎるということです。

 他方、團伊玖磨氏の問題意識は、巻末の論考「日本人の音楽を探る」の中で簡潔に示されています。團氏の作曲家としての半生を描きながら、日本の音楽に対する問題意識を実に簡潔に表現されています。

 團氏は山田耕筰に師事して作曲の道に進み、そして音楽学校に進むのですが、音楽学校において西欧の音楽ばかりを勉強していることに疑問を持ちます。学校で教える内容は西洋の作曲法、西洋の演奏法が中心であり、團氏には心のどこかにひっかかるものがありました。シューベルトをうまく歌える人がわれわれの作った日本の歌をうまく歌えないというのは本末転倒ではないか、これでは学習の順序が違うのではないか、といった疑問が湧いていたのです。

 その後團氏は、NHKでの仕事を経た後、芥川也寸志氏らと同じ時期に作曲家としてデビューし、様々な音楽を実践しながら、音楽作品を書き続けます。そうした試行錯誤の中から、團氏の日本音楽に対する問題意識は形成されていきます。

 團氏は、西洋と日本の音楽の相違点を次のように説明しています。

 西洋の音楽は、キリスト教の教会の中で育ってきたものであり、いってみれば、人間の精神生活の最も高い、最も清らかな場所と音楽が一致している。これに対して、日本の場合、仏教と音楽は共存することができず、音楽は置いてきぼりになってしまった。宮廷には雅楽が残ったが、これは一般大衆から隔絶された社会に儀式用として残ったに過ぎない。日本の大衆音楽が栄えた場所というのは、芝居の世界と遊里の芸者の音楽だった。

 つまり、西洋の音楽には陽が当たり、音楽自体が善として捉えられたのに対して、日本の大衆音楽はじめじめした日陰のものであり、怪しげなものであった、という点に西洋と日本の音楽の大きな違いが見出せるというわけです。

 そういう状況の中で、日本は明治維新を迎えることになります。アメリカから教科書が大量に持ち込まれ、アメリカの歌やイギリスの歌を中心に日本の音楽教育が始まることになります。日本の音楽はといえば、芝居小屋や遊里の音楽なので、教室に持ち込むわけにはいかない。しかも、日本の音楽は極端なほどに文学に偏ったものでした。つまり、言葉のない音楽というのは日本の音楽では非常に難しいといった事情があったのです。

 日本の音楽が文学に偏してきた点は、対談の中でも團氏が強調されている点です。

「かんたんにいえば、日本には非常に文学的な音楽が多かったということ。あまりに文学の影響の濃い音楽をわれわれは背負っている。それが現在の、一般に流行する演歌などにまでつながっているのですね。」(p98)

「江戸時代をみてもほとんど言葉の歌であって、だから明治になっての教科書でも、「音楽」ではなく「唱歌」であった。それをだれも疑わないで、学校での音楽の点数は、「言葉のある歌」を歌うことでつけられてきた。これは大きな間違いだったと思うのですが、今なお音楽といえば歌を歌うことだと思われている傾きがある。…やはりそこから音楽を音楽として独立させる必要があると考えるのが本筋じゃないかと思うのです。そこの整理のないままに演歌にまできているものを、単純に伝統として背負いたくないという気持ち。」(p98−99)

 
 團氏は、文学から離れた純粋音楽を日本に作ろうという意図から、当初、交響曲を創作しますが、そのうち、文学的要素を振り捨てないで文学と音楽を合体させ、日本の特性を生かした新しい作品ができないだろうかと思うようになります。こうして團氏は、オペラの創作に取り組むようになります。

 團氏は、日本の音楽が未だに文学をひきずっていることについては、師である山田耕筰にも責めを負わせています。つまり、日本がヨーロッパ音楽を吸収した19世紀は、ヨーロッパにおいても音楽がいくぶん文学化した時期であり、山田耕筰を始めとする音楽家たちが作曲したものは、西洋の19世紀が生んだ文学的な傾向と日本の伝統的な文学的傾向とが癒着したものとなってしまったというわけです。團氏は、そういうものが将来、日本の音楽に続いていくべき姿ではなく、過去の日本の作曲家と断絶しなければならないと述べています。

 
 さて、肝心のお二方の対談が一番盛り上がるのは、日本の音楽が西洋に偏りすぎているといった点について話が及んだときです。團氏は、音楽教育について、次のような発言をされています。

「最初にピアノのバイエルを習わせますが、バイエルなんて日本の子供となんの関係ももたないものですね。あれはヨーロッパ人がヨーロッパ音楽を勉強するための第一歩なので、その第一歩を日本にもってくることの大胆さ、あるいは思慮の浅さに驚きます。」(p82)

 日本の音楽教育が西洋に偏重していることは、逆にいえば、日本の音楽が伝統と切断されているということと裏表の関係にあるといえるでしょう。この点についても、対談の中で再三にわたって触れられています。

 團氏は次のように述べています。

「…日本の創作音楽というものはあまりにも日本の伝統を切り捨てすぎたところから出発したために、継承発展ということがなくて未整理のままに取り残されてきたという気がするのです。最初の作曲家である滝廉太郎さんが若くして死んだこともあって、あの人の仕事と次の人たちの仕事が切れてしまっている。とくにその後日本の創作音楽のイニシアティヴをとった山田耕筰先生のなかにあった、作曲家として未整理な問題がそのまま残されたために、日本の作曲というものは明治にわずかにあったものまで否定して、新しくゼロから出発しなければならなかった。」(p126)

 團氏は、滝廉太郎がもう少し長く生きたら、山田耕筰がもう少し自己の整理をする人だったら、と悔やみます。團氏も述べておられるように、例えば文学の世界などでは、森鴎外永井荷風など徹底的に外国文化に淫したあとに日本に回帰したという人物が見られるのに対して、音楽の世界では、不徹底なままにUターンしてきてしまっているわけです。

「西欧の技法をうんと咀嚼して、そのなかに日本を盛り込むことに、どうして努力しなかったのか不思議です。」(p128−129)

と團氏は述べています。そして、他の分野ではできたことがどうして音楽ではできなかったのか、と疑問を呈しています。


 本書を読んで、なぜ私が先日皇居の雅楽を聴きに行った際に眠くなってしまったかが、少し分かってきたような気がしました。やはり日本の音楽には、伝統との間に深い断絶があるのだということが、よく分かりました。私が小学校以来受けてきた音楽教育のカリキュラムには、雅楽のような日本の古い音楽はおそらく組み込まれていなかったか、組み込まれていたとしても、ほんのわずかであったに違いありません。音楽教育における西洋偏重主義が、私の音楽に対する耳にも深い弊害をもたらしているのではないかという確信を抱きました。

 現代のメジャーな音楽シーンを見てみても、一体どこに日本の伝統とのつながりがあるのか、という気がします。もちろん、周縁部において伝統音楽との関係を意識しながら活動されている音楽家の方々は多くいらっしゃるのだと思いますが、コマーシャリズムに乗っかっている音楽には、ほとんど伝統の痕跡を垣間見ることはできません。本書で團氏らが強調されている伝統との断絶が今日においてもほぼ全く状況が変わっていないということができるでしょう。

 例えば、私がしばしば聴きに行くジャズについて見ても、どうしても日本人のジャズにはどこかしらのぎこちなさという違和感を感じてしまう場合が多々あるのです。確かに、多くのジャズのプレイヤーの方々は、バークリー音楽院などでジャズのセオリーをしっかりと身につけ、欧米のプレイヤーと肩を並べるほどのテクニックを身につけているのかもしれません。しかし、それを日本人としてしっかりと咀嚼した上で演奏に反映しているのかどうか、いささかの疑問を持たざるを得ないのです。

 演奏中の仕草ひとつとってもそうです。欧米のジャズ・プレイヤーたちは、演奏中に実に楽しげな笑顔を互いに交わし合っています。日本のプレイヤーもそれをまねしようとしているのでしょうけれども、どうもその笑顔にはぎこちなさを感じてしまいます。

 昨今、これだけジャズに対する需要があるのですから、日本の風土にあったジャズというのはできないものでしょうか。日本各地でジャズは演奏されているわけですが、その地方固有のジャズというものがあったらさぞかし素晴らしいことではないかと思います。

 ジャズの本場アメリカでは、黒人中心の東海岸のジャズ・シーンと白人中心の西海岸のジャズ・シーンにはそれぞれ独特のカラーがあります。最近のイタリア・ジャズにもクールでおしゃれなカラーがあります。では、日本のジャズの特徴は?というと、どうもピンとこないというのが正直なところのような気がするのです。日本の伝統と結びついたジャズというのでもよいのですが、これぞ日本のジャズと胸を張って言える特徴があったら素晴らしいだろうなぁと思ってしまいます。


 話はだいぶそれましたが、本書は30年以上前の対談を基にしているにもかかわらず、その内容は依然として今日の日本の音楽事情にとって多大な示唆を与えてくれます。音楽の著作権の弊害についてのお二方の指摘も、今日においても大変新鮮です(ちなみに、團氏は、今世紀の初頭のトーキー映画の出現で失業した無声映画の楽隊の人たちを救済するためにリヒャルト・シュトラウス著作権法を国会に上程し可決され、ベルヌ条約のもとになっていると述べています。その真偽についてはよく確認していませんが、新鮮な指摘でした。)。

 対談なので話の内容も理解しやすく、音楽について関心のある方は是非目を通してみてください。