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リチャード・フロリダ「クリエイティブ資本論」

クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭

クリエイティブ資本論―新たな経済階級の台頭

 原著「The Rise of the Creative Class」は2002年に出版され、ベストセラーとなったものです。

 私はあまりこういう類のタイトルの本には触手が伸びないのですが、本書は近年のアメリカで「クリエイティブ・クラス」というべき階級が人々の働き方から価値観に至るまで大きな影響力を持つようになってきていることを論証するものであり、最近のアメリカ社会の動向を窺う上でも大変興味深い内容のものでした。

 著者は、クリエイティブ・クラスの特徴は「「意義のある新しい形態をつくり出す」仕事に従事していること」であるとして、その中核たる「スーパー・クリエイティブ・コア」には科学者、技術者、大学教授、詩人、小説家、芸術家、エンタテイナー、俳優、デザイナー、建築家のほか、現代社会の思潮をリードするノンフィクション作家や編集者、文化人、シンクタンク研究員、アナリスト、オピニオン・リーダーなどがこれに含まれるとし、さらにその周りには、ハイテク、金融、法律、医療、企業経営などの「クリエイティブ・プロフェッショナル」が配置されているとしています。

 こうした人々の占める割合は過去20年間に急増し、今では(1999年現在)クリエイティブ・クラスは国内労働人口のおよそ30%を占めるに至っているとのことです。こうした人々が主流を占める社会が出来上がりつつあり、アメリカの経済や社会を根本から変化させているのだと著者は述べます。

 こうした社会では、これまでのように企業に縛られることはなく、クリエイティブ・クラスの人々は一つの組織で出世を目指すのではなく、自分のやりたいことを求めて水平方向に会社から会社へと移動するのが特徴です。金銭だけでなくむしろやりがいを第一に考えて仕事を選択します。その仕事について回る見返り―すなわち「内発的報酬」―が大きな動機となっているというわけです。

 彼らは職場の環境も変化させています。カジュアルの服装を許容する多様なドレスコード、開放的なレイアウト、柔軟な勤務時間等々を採用する職場が増えているとのことです。職場の管理形態も上から押しつけるのではなく、従業員の感情に訴えるような「ソフトコントロール」が採用されます。

 ただ、他方で勤務時間は極めて長時間化しており、しかも、クリエイティビティを引き出そうとして職場のストレスはより高まる傾向にあります。著者は長時間化の理由として、クリエイティブな人々は仕事そのものが好きだということを挙げています。つまり、本人が望んで長時間化しているというわけで、本人たちにとっては働き過ぎという感覚なのではなく、むしろやりたいことをするだけの十分な時間がないことへの不満を抱いているのだと著者は述べています。

 こうした傾向は仕事の面だけではなく、日常生活や余暇においても大きく影響を与えています。クリエイティブ・クラスは活動的な階級であり、アクティブなアウトドア活動を高く評価する傾向があるとのこと。仕事では頭を使うので、余暇では体を動かそうとするというわけです。そして、時間欠乏は余暇においても当てはまり、だから単位時間当たりのエンタテイメント性が高いアクティブな活動を好むのだというわけです。クリエイティブ・クラスの人々はその土地に根を張ったストリート文化にも魅せられます。

 そして著者は、経済成長はクリエイティブな人材をいかに惹きつけるかに密接に関連していることを強調しています。著者は「クリエイティブ・インデックス」という指標を提唱しているのですが、これはクリエイティブ・クラスの人口の比率、一人あたりの特許件数などの要因に加えて「ゲイ指数」、つまりゲイの地域別集中度を要因として加えられている点に大きな特徴があります。これは、例えばハイテク企業にゲイが多いとかいうことを意味しているわけではなく、クリエイティブ・クラスの人々は開放的で多様性のある場所を好む傾向があり、そうした開放性や多様性を図る尺度として、ゲイ指数が強い相関関係を持つということです。

 著者は、経済成長の要因は3つのT、すなわち技術(technology)、才能(talent)、寛容性(tolerance)がその要素としてあげられるとしていますが、「ゲイ指数」というのは、寛容性と密接に結びついているというわけです(この著者の主張は案の定多くの論争を巻き起こしたそうです。)。

 この寛容性を図る指標としては、ゲイ指数のほかに、「ボヘミアン指数」もあります。本書の指摘で大変興味深いのは、クリエイティブ・クラスとボヘミアンとを結びつけて論じている点にあります。ヒッピーやウッドストックに代表されるボヘミアン文化は1960年代のアメリカ社会を席捲し、多くの保守的な知識人たちから憂慮されたように、ブルジョア文化と対立してきた歴史があります。著者は、こうしたボヘミアンたちのクリエイティビティを求める価値観が今日のクリエイティブ・クラスにも息づいていると述べています。

 特に興味深いのは、シリコンバレーこそが60年代のボヘミアンたちの遺産だと著者が指摘している点です。

「六〇年代が残した偉大な文化遺産は、結局のところウッドストックではなく、アメリカ大陸の反対側で発展していった。シリコンバレーである。……シリコンバレーは仕事世界と生活世界の両方を巻き込み、その二つを編み合わせ、まったく違うものへと変容させたのである。」(p262)

 シリコンバレーの企業では、ニューヨークやシカゴでは受け容れられなかったような長い髪やジーンズ、風変わりな習慣や個人的信念などを気にしないで雇ってくれた、だからこそ、当時コンピュータという新しいテクノロジーに強い関心を抱いていたボヘミアンたちを受け容れることができたのだというわけです。著者は、次のように指摘します。

シリコンバレーが特別なのは、スタンフォード大学があるからでも、気候が温暖だからでもない。クリエイティブで異質な、正真正銘の変人に対してオープンであり、協力的な環境があったからこそ、シリコンバレーは特別な場所となったのである。」(p267)

 このように、本書では、クリエイティブ・クラスの人々が惹かれるようにな開放性や多様性を持った都市こそが経済成長をもたらすのだという主張が展開されます。かつては、大企業が人材のマッチングの役割を果たしていたのが、今日では、クリエイティブ・クラスの人々が集まる場所こそが、そうしたマッチングの役割を果たし、それが経済成長の原動力となるというわけです。

 そして、もう一つ重要な点は、クリエイティブ・クラスの人々は「弱い絆」を好んでいるのだという著者の主張です。『孤独なボウリング』という本を著したパットナムは、ボウリング愛好会が大きく減少しているのに対しボウリング人口が増加していることから、アメリカ社会における社会の絆、すなわち「社会資本」の衰退を指摘したわけですが、著者は、パットナムが指摘したような強い社会の絆を欲している人は今ではほとんどおらず、むしろ「弱い絆」こそが好まれているのだと言います。つまり、「弱い絆」であればより多くの関係を持つことができ、クリエイティブな環境にとってはこうした「弱い絆」の方が重要なのだというわけです。こうした「弱い絆」によってクリエイティブ・クラスの人々が結びついたコミュニティこそが経済成長の鍵を握るのだというのが著者の主張です。

 ただし、著者もこうした流れが新しい対立を引き起こす可能性についても指摘しています。著者は、成長を遂げるクリエイティブ・クラスの集中する地域か、停滞するワーキング・クラスやサービス・クラスが集中する地域のいずれかに二分されるのではないかとの懸念を表明しています。こうした問題について著者は、クリエイティブ・クラスは多くの人々のクリエイティビティを開発し、クリエイティブ経済に組み込まれるようにすることが必要であり、それがクリエイティブ・クラスの道徳的義務だとします。

 私も、著者が指摘するような二分化の危険性は大きな問題だと思います。著者の言うように、多くの人々がクリエイティブ経済に吸収されていけばもちろんハッピーなのでしょうが、ただ、果たしてそうした解決策が現実的かどうかはやはり疑問を感じます。

 著者も本書で指摘しているとおり、クリエイティブ・クラスの成長に呼応するように、クリエイティブ・クラスに代わって雑用をこなしてくれる末端サービス労働者が必要となってきたという面があるわけです。つまり、クリエイティブ・クラスの成長の陰には、やはりクリエイティブ・クラスには吸収しきれない階層というのはどうしても残ってしまうのではないかという気がするわけです。社会の成員の全員がクリエイティブ・クラスの仲間入りするというのはやはり難しいのではないかと思います。

 そういう視点で本書を見ると、クリエイティブ・クラス以外の人々、つまりワーキング・クラスやサービス・クラスに当たる人々に対する視線がすっぽりと抜け落ちている印象を拭えないことは認めざるを得ません。やりたい仕事に従事することができるクリエイティブ・クラスの人々は、ますます仕事と日常生活の境界線を曖昧化して、24時間やりたいことに勤しむことができるような時代になっているのかもしれませんが、その裏では、やりがいとは無縁の職業に不本意ながらも就かざるを得ない人々も数多く存在するわけで、好きこのんで長時間労働をするクリエイティブ・クラスの行動形態が広く一般化される方向に向かうことは避けなければならないでしょう。

 ただ、そうは言っても、本書は重要な視点を示してくれていることは認めなくてはなりません。特に「弱い絆」のコミュニティという指摘は重要でしょう。トーマス・フリードマンは『フラット化する世界』で、IT化する世界においては、あらゆる場所でイノベーションが起こると指摘し、場所の概念がますます希薄化する方向にあることを示唆しましたが、それに対して、リチャード・フロリダは本書で、クリエイティブ・クラスが集うコミュニティこそが経済成長の原動力になるのだという主張を展開しています。いくらIT化が進んだとしても、結局は人と人との絆は距離が短いところで成立するわけで、イノベーションは人と人との絆から生まれてくるものだとすれば、本書の指摘するように、コミュニティの存在というのは、従来とは違った形であるにせよ、重要な要素であるのだと思います。

 そして、本書の視点は、従来の地域振興において見落とされていた点を突いているような気がします。地域の経済発展のためには、ただ企業を誘致するだけでは足りず、クリエイティブな人々が集まってくるような開放性や多様性が必要であり、ゲイやボヘミアンが受けいれられている都市こそがそうした開放性や多様性を持つ都市なのだという指摘は目から鱗です。地域振興に当たっては、ゲイやボヘミアンを積極的に受けいれる施策を講じるべきというわけではもちろんありませんが、多様な人材が惹きつけられる魅力的な都市を作るという視点が重要であると思います。

 日本語のタイトルからは、単なる企業マネジメント論が展開される本であるかのような印象を受けてしまいますが、実際は都市文化論が中心であるといった方が適切でしょう。

 なかなか読み応えのある本でした。