- 作者: 丸山明日果
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2002/11
- メディア: 新書
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私は「歌声喫茶」と聞いても、みんなで集まって歌をうたう1950年代後半の一時期にはやった喫茶という程度の知識しかなく、何が魅力なのか全くピンとこないばかりか、失礼な言い方を覚悟でいえば、喫茶店に集まった見知らぬ人々と一緒にみんなで合唱するというのはやや「きもい」行為とさえ思っていました。しかし、この本を読むと、そんな単純な問題ではなく、歌声喫茶のブームという現象に、当時の人たちの様々な生き様が凝縮されているのだということがよく分かります。
著者の「灯」探求の旅は、筆者の母親の里矢の若かりし頃の写真を見たことがきっかけとなって始まります。その写真には、大勢の人たちの前で溌剌と歌っている22歳の里矢がいました。そして、里矢が実は当時雑誌にも取り上げられるほどの人気者だったことを著者は知ります。
里矢は演劇の勉強をするために上京してきますが、東京で生活していくためにアルバイトを始めます。そんな中で「灯」のマスターとなる柴田伸と出会い、客に歌をうたわせるという新しい店を一緒にやっていこうと提案を受けることになります。そして、日本が高度成長を開始した頃の1956年に新宿に「灯」がオープンします。
人々が娯楽に飢えていて、温もりを求めていた、そんな時代状況が背景となって「灯」はその後躍進を遂げていくことになります。
「灯」は雑誌にも取り上げられ、文化人たちも多く訪れます。そして、学生たちの間にも噂が広まって来店者は鰻登りに増えていき、まもなく行列ができるほどの人気を博します。外で待っている客も店内の合唱に合わせて歌い出す有様。新宿の文化服装学院では、学生たちが歌声喫茶に出入りすることを心配した寮長先生が視察に行き、「ここならよろしい」とお許しを出したという伝説があるそうですが、それほど女性客も多かったということです。
やがて、「灯」は手狭になったことから、新しくビルを建てて規模の拡大を図ります。そして、里矢はマスターの柴田伸と結婚することになります。しかし、だんだんと歯車が狂い始めていきます。創設時のメンバーも徐々に店から離れていきます。柴田は吉祥寺に「灯」の吉祥寺店を開店させますが、やがて本業をそっちのけになっていきます。ブームが徐々に下火になるにつれて経営不振の状態となり、従業員たちの労働組合がピケを張るようになり、店内が破壊し尽くされてしまう。
里矢はやがて柴田と離婚し、その後詩人と結婚して著者が生まれます。
本書の魅力は、著者がかつての「灯」の関係者に体当たりの取材を次々と試みているところにあります。そして、取材対象者のコメントが、当時なぜ歌声喫茶が必要とされていたのかを生き生きと描写しているのです。
まず、「なぜ合唱する店なんかが、流行したの」という筆者の質問に対する里矢の言葉。
「きっと、みんな歌いたかったんだと思うわ。終戦の一一年後でしょ。娯楽なんかないし、戦争で心も体も飢えていた。そんな中で温もりを求めていたのかもね。」(p23)
里矢とともに看板娘だったかほるさんの言葉。
「なにがうれしかったって「私の店」「私たちの店」って自覚できること。それはまるで、夢みたいな日々だった。そんな日々の中で「今、私は生きている。生きているってこういうこと!」と体中で叫んでたわ!」(p51)
常連客で当時29歳のサラリーマンだった柴田昭夫さんの言葉。
「僕はさっそく合唱に加わりました。…いやぁ、実に楽しかった!それからというもの、会社帰りに週に二度、三度と通うようになりました。あんな店はどこにもありませんでしたからね、とにかく非常に画期的だったんです。「灯」にはたいていひとりで行きました。ひとりで行っても、店に入れば見ず知らずの人とのあいだで一体感を共有することができる。それは僕にとってかけがえのないことでした。歌っているあいだに、日常の中での疎外感やむしゃくしゃした気持ちが消えていってしまうんですね。」(p65)
「厳しい時代でしたから、みんな歌を求めていました。でも勇気がなくてうたえない。でも里矢は立派なもんでした。自ら歌ってみせて、そして人も歌わせていったんですから。」(p67)
ボニージャックスのリーダー西脇さんの話。
「「灯」は時代の先端だったんです。当時僕ら学生は、国の未来について一生懸命考えていました。でも今と違ってマスコミが発達していないから、僕らに届く情報が本当に少ない。でも僕らはナマの情報に飢えている。そこへいくと「灯」には組合の若い労働者などがたくさん来ていましたから、いろんなことが得られる、違う境遇の人たちとも語り合える、そんな場でもあったんです。」(p104)
「「灯」は遊ぶ場ではあるんだけど、みんな目的や意志をもっていました。当時では珍しく、女の人なんかも来ていましたし、健全な社交場であり、カルチャー教室でした。」(p105)
そして、筆者が最も会いたがっていた創設時のメンバーのドンちゃんの言葉。
「…当時はみんなが貧しくて大変だったり、いろいろあったわけですが、ぼくはどの時代もすべては出会いだと思うんです。ホントそれだけじゃないかなぁ。いくら人を頼りたくないって言ったって、人はひとりでは生きていけませんからね」(p195)
「人は門をくぐって、コミュニティーに所属するんですよね。その中で自分はなにができるか。それだけだとぼくは思うんです。そこに存在する意味があればそれでいいんです。だって人ひとりの力なんて、本当に大したことないです。いくらひとりでがんばったってなにもできやしないんです。」(P195)
これらの言葉から窺えるのは、高度成長が開始された頃に都会の日本人たちが人との付き合いに飢えていたという事実のように思います。集団就職などが行われた時代、田舎から出てきた若者たちは、都会で誰も頼る人がいないという状況に置かれ、いわば“アトム”化された大衆が多く生まれていたわけです。農村において人々のアイデンティティを支えていたようなコミュニティも存在しません。そうした若者たちが、都会の歓楽街の中に、一人でも入れて溶け込めるような空間を見つけ、合唱することで一体感を味わうことに熱中したのは、ごくごく自然な流れだったのかもしれません。それは、歌声喫茶を運営する側にも、客として訪れる側にも、共通して言えることだったのではないかと思います。
その後、歌声喫茶に通っていた若者たちも、家族を持ち、小さいながらも帰属する集団を形成していくことになります。そして、地域コミュニティも次第に都会の中に形成されていくわけで、そういう流れの中で歌声喫茶の役割も徐々に薄れていったと言えるのでしょう。
戦後の日本社会にほんの一瞬出現した「歌声喫茶」という現象を探求することで、その時代の人間たちの生態がここまで生き生きとよみがえってくる、、、これは立派な民俗学的な研究といえるでしょう。
本当に面白かった、というのが率直な感想です。
最後に、著者に対する母親里矢の重い言葉を引用しておきます。
「…今のあなたなんかに比べたら、たしかにわたしはハングリーだったわよ。いつも一生懸命で、あなたみたいに余計なことをうだうだ悩んでいる暇もなかった。わたしだけじゃない。あの時代の若者はみんなハングリーで、常に自分の可能性と闘っていたのよ。だから、時には歌を歌って心を和ませることが必要だったし、苦労しているぶん、ちょっとした心の触れあいにも感動できたのよ。生きるってあなたが思ってるほど生易しいものじゃないわ。あなたには楽しいだけの話にしか聞こえていなかったみたいだけど、楽しいことの裏側には、それと同じだけつらいことが潜んでいる。あなたは甘すぎる。もっと世の中にまっすぐ目を向けて生きるべきなのよ」(p125)