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渡辺靖「アメリカン・コミュニティ 国家と個人が交差する場所」

アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所

アメリカン・コミュニティ―国家と個人が交差する場所

 前著『アフター・アメリカ』にも大変感銘を受けましたが、本書も大変冴えたものとなっています。文化人類学者である渡辺教授が持ち前のフットワークを駆使して、アメリカの9つのコミュニティを訪れ、それぞれのコミュニティに様々な<カウンター・ディスコース>(=対抗言説)を見出していき、アメリカ社会の持つ強みを解き明かしていくといった内容ですが、書かれている内容が非常に高度であるにもかかわらず、すらすらと読み進めることができる文体の滑らかさに、著者の卓越した文章力・表現力を感じます。

 著者が最初に訪れるのは、マンハッタンから2時間弱の場所に位置する「ブルダホフ・コミュニティ」です。1985年に建設され、約350人が暮らしています。信仰をベースにした共同生活を送っており、絶対平和主義を貫き、洗礼を受けた成人同士の結婚しか認めない等々の規律が存在するもの、決して閉鎖的なコミュニティではなく、外部との交わりの中でコミュニティの価値を再確認している。そして、コミュニティを維持しているのは学校、保育園、託児所向けの玩具や家具を製造するビジネスで、工場では最新の機械やコンピューターが並んでいる。


 次に紹介されているのは、ボストンの「ダドリー・ストリート」です。ボストンの真ん中に位置しながら、長らく危険地帯とされていた一角で、不動産所有者の組織的な放火による保険金詐取が相次いだ場所です。そこの住民たちが1984年以降コミュニティの再生に取り組んでいきます。非営利組織が立ち上げられ、空き地の土地収用権(公共の目的のために、所有者の同意がなくても、補償だけで土地を買い上げることができる権利)という強力な権利が付与され、それが推進の原動力になります。かつては廃棄物が散乱し、雑草が生い茂っていた空き地が美しい共有地へと変わり、家の焼ける臭いや腐敗した残飯の臭いは、有機栽培された野菜の香りへと変わっていった。ロバート・パットナムが取り上げた「ソーシャル・キャピタル」(信頼、規範、ネットワークといった、社会制度を根源的な部分で支えている特性)の持つ力が現れた事例というわけです。


 3番目のコミュニティはロサンゼルスから南へ100キロ行った場所にある「コト・デ・カザ」。アメリカ最大のゲーティド・コミュニティです。敷地は東京ドームの約400倍。住民は白人が85%を占めており、高学歴の者が多いとのこと。本来一般の市民に開放されるべき資源をゲートで遮断することが法律的に認められているところに、ゲーティド・コミュニティの特徴があります。
 こうしたゲーティド・コミュニティに対するニーズは、近年特に高まっているセキュリティへの際限なき欲求に基づくものです。バリー・グラスナーのいう「恐怖の文化」、ウルリッヒ・ベックのいう「リスク社会」といった社会状況がその背後にはあります。ゲートの中に生きる人にとっては、ゲートの外の世界は無関心であり、全米に広がりつつある「道徳的最小主義」ともいうべき風潮の顕著な現れというわけです。

 それから、リンド夫妻による『ミドルタウン』の舞台として有名なインディアナ州の「マンシー」が典型的な町として取り上げられ、モンタナ州の農家の協同コミュニティが伝統的なライフスタイルや価値観を追求するコミュニティとして紹介された後、アリゾナ州プライズメガチャーチが紹介されます。


 メガチャーチというのは信者数が2000人以上の巨大な教会を指しますが、エクサーブ(=準郊外)の象徴ともいえるサプライズにはラディアント教会というメガチャーチがあります。この教会の牧師マクファーランドはかつてマイクロソフト社に勤務していた人物で、「ショッピングセンターみたいな教会」を目指しているとのこと。教会の敷地内にはドライブ・スルーのコーヒースタンドがあるなど、教会の雰囲気は正にショッピングセンターの一画のような感じだそうです。礼拝では、ロックミュージシャンが登壇し、マクファーランド牧師の説教もジョークを巧みに織り交ぜながら聖書の教えを日常生活の中に喩えながら展開されるということです。
 こうしたメガチャーチは近年アメリカにおいて急速に増加しているようで、ある調査によれば、1970年には10しかなかったのが、2004年には840にも上っているとのことです。これらのメガチャーチでは、教会そのものがスモールタウン化しており、中には、銀行、ホテル、映画館、フットボール場などを有するものも存在するとのことで、一種の“ユートピア”といった様相です。


 それから、ディズニーの創った町「セレブレーション」。フロリダ州のオーランドに位置しています。伝統的な町が有していたコミュニティの特徴を現代的な文脈の中で再生しようという「ニュー・アーバニズム」の手法を取り入れた町づくりとして注目を集めているコミュニティです。1995年にオープンしたこのコミュニティには1万人の人が居住しているとのこと。白人が87%と圧倒的多数を占めています。セレブレーションの中では、電動のスクーターやカートがごく普通に使われている。そして、町には信号がなく、人間同士のコミュニケーションが重視された設計となっているそうです。正にディズニーがノスタルジーとファンタジーを融合させた町です。

 このほかにも、本書では、かつてマーガレット・ミードがサモアの少女たちの自由奔放な性交渉について書いた『サモアの思春期』で物議を醸した南太平洋に浮かぶアメリカン・サモア、死刑執行が行われていることから「死の首都」とも称されるテキサス州のハンツビルなどが紹介されています。


 さて、本書全体を通じて一貫して貫かれている著者の視点は、「カウンター・ディスコース(対抗言説)」としてのコミュニティの在り方といえます。

「社会のなかに様々なカウンター・ディスコース(対抗言説)を擁していること。そうしたディスコースが絶えず生み出されては、せめぎ合っていること。そして、それが許される<自由>。そうした<自由>を自己理解ないし運動律の核としている社会。それは、安易な烙印や批判を拒むと同時に、自らに足払いをかけながら、永遠に革命を続ける手強い社会でもある。」(p34)

 この著者の巧妙な文章の中に、本書を通じたアメリカ社会の捉え方が凝縮されているといえます。

 アメリカを語る時に「多様性」という言葉がよく使われるが、それは社会構成における多様性を指すのではなく、「アメリカは○○である」という定義付けを常に拒むカウンター・ディスコースの存在にこそ特徴がある、そしてそれこそがアメリカ社会の強みであるわけです。

 それから、もう1つ著者が強く意識しているのが、各コミュニティと資本主義・市場主義との距離感です。資本主義や市場主義を受容しながらも、これらに従属することを拒んでいる姿が、本書で紹介されているコミュニティから滲み出ているわけです。

「それぞれのコミュニティが、その規模も背景も異なるとはいえ、資本主義や市場主義の論理を前に、それぞれの方法と様式を以て向き合っていることが分かる。それを従属と見るか、抵抗と見るか、受容と見るかは、判断する側の立ち位置によってさまざまであろう。アメリカの多様性とは、単に社会や文化が複雑に混淆している点のみならず、資本主義や市場主義を前にしたときの、人びとの意味づけや対峙の仕方が多彩である点にも認めうるのである。」(p225)

 資本主義や市場主義の権化であるかのように思われているアメリカ社会ですが、実は資本主義や市場主義に対する繊細でナイーブな視線を持ち合わせているわけです。それに対して、近年の我が国においては、資本主義か社会主義か、市場か政府か、といったあまりに単純化されすぎた議論が展開されているような気がしてなりません。

 アメリカにはこうした様々な形で資本主義や市場主義と向かい合っているコミュニティが存在するという事実は、もっと我が国において知られてもよいはずですし、我が国におけるこれからの社会の方向性を考えていく上で、重要な示唆を与えてくれるような気がします。

 アメリカ社会という掴み所のない対象物を巧みに料理し、エッセンスを抽出していく著者の技量に改めて脱帽させられました。