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梅森直之「ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る」

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

 ベネディクト・アンダーソンといえば、ナショナリズムの古典『想像の共同体』の著者であることはいうまでもありませんが、本書の前半には、彼が2005年4月に来日した際の講演が収録されており、後半には、梅森氏によるベネディクト・アンダーソン入門のような形の論考が収められています。
 さて、アンダーソンによるこの講演の注目すべき点としては、彼が『想像の共同体』を世に送り出してから、自らの力の及ばないところで本書が作者が意図しない形で受容されたことを吐露していることや、自ら『想像の共同体』の弱点を披露したりしていることでしょう。

 アンダーソンの講演を見てみる前に、まず、梅森氏による論考に依拠しながら、アンダーソンについて見てみたいと思います。

「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である。」(本書p113における梅森氏による引用)

 これは『想像の共同体』におけるアンダーソンの有名な一節です。つまり、我々が当たり前のように受け容れている国民国家という概念は想像の産物に過ぎない、というわけです。

 アンダーソンが『想像の共同体』を執筆する動機としては、内的条件と外的条件があったとしています。内的条件としては、講演の中でアンダーソン自ら述べているように、複雑な家族背景を有しています。父はアイルランド人、母はイギリス人で、父方の祖母の家系は真正なアイルランドの古いカトリックで、同じく父方の祖父の家系は、イギリス系アイルランド人で、アンダーソン自身も子供の頃プロテスタントカトリックの両方の教会に通うことになったということです。いわばアイデンティティが混交しているような具合です。

 他方、外的条件としては、彼がインドネシアを訪れた際、ちょうどスカルノ政権が転覆するクーデターが勃発し、その余波でアンダーソンはインドネシアから国外退去を命じられ、27年間も入国禁止となった事実が挙げられます。

 この内的・外的条件が合わさって、アンダーソンによる『想像の共同体』という著作が生まれたわけです。

 アンダーソンが『想像の共同体』の中で編み出した概念装置としては、「均質で空虚な時間」、「出版資本主義」、「公定ナショナリズム」などが挙げられます。

 「均質で空虚な時間」というのは、今日の日常生活において過去から未来に向かって規則正しく流れていく時間のことで、「メシア的時間」と対比されています。

 「出版資本主義」という概念は極めて有名ですが、アンダーソンは近代において国家の境界を作り出していく主要な契機を「言語」に求めており、国民の間で共有される標準語は、出版業が産業として確立する時期に「書き言葉」として登場した新しい言葉だとします。つまり、毎日新聞を読むという行為はある国家に暮らす見知らぬ人々の間につながりを作り出す儀式だとアンダーソンはいうわけです。

 梅森氏は次のようにまとめています。

「…「出版資本主義」を通じて固定化された言葉は、「均質で空虚な時間」による開かれた人間のつながりを、境界によって囲い込む。この「開放」と「閉止」の同時進行が、「国民」という想像体を可能にするメカニズムである。」(本書p143)

 こうした「国民」という観念は、ヨーロッパで生まれたものかといえばそうではなく、ラテン・アメリカの旧植民地で生まれたものだとアンダーソンは見なしているようですが、いったん「国民」という観念が形成されると、それは模倣可能なモジュールとなり、ヨーロッパのブルジョワジーにも「盗用」されていきます。さらに、ヨーロッパで増殖した民衆的国民運動に脅威を感じた王朝権力も国民と王朝帝国を結びつける試みを開始します。こうした現象をアンダーソンは「公定ナショナリズム」と呼びます。アンダーソンは日本についても「公定ナショナリズム」のカテゴリーの下で分析しています。

 興味深いのは、その後アンダーソンの「出版資本主義」の考え方が変化していく点です。梅森氏は次のように指摘しています。

「『想像の共同体』において、「出版資本主義」は国民という「限られた」共同体の想像をうながす最大の推進力とみなされていた。しかしながら、『比較の亡霊』において、「出版資本主義」がもたらすのは、むしろ「世界」というグローバル化された意識であるとされている。「出版資本主義」は、むしろ非限定的な「つながり」を生み出す契機として位置づけ直されたのである。」(本書p153)

 では、どうしてこのような変化がアンダーソンの中に生じたのでしょうか。アンダーソンは、講演の中で、

「あの本は、「グローバリゼーション」を考えに入れてはいませんでした。」(本書p97)

と述べているように、アンダーソンは『想像の共同体』がグローバル化について十分考慮に入れていなかった点を反省しています。「出版資本主義」についての見方を変えたのも、この概念をグローバル化の中で捉え直していこうという動機があったからだといえそうです。

 アンダーソンは講演の中で、目下の研究テーマとして、かつて19世紀終わりから20世紀初頭にかけてナショナリズムアナーキズムを結びつけた初期グローバル化に注目していることに触れていますが、これもアンダーソンがグローバル化について十分考慮にの反省に基づくものでしょう。従来敵同士であると扱われてきたナショナリズムアナーキズムを結びつけようというのは非常に大胆な研究であるわけですが、この試みがどれだけ成功しているのか、私にはそれを論じる能力はありません。

 本書はアンダーソンの入門書として非常に分かりやすくできていると思います。