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映画、書評、ジャズなど

塚原史「ボードリヤールという生きかた」

ボードリヤールという生きかた    NTT出版ライブラリーレゾナント010

ボードリヤールという生きかた NTT出版ライブラリーレゾナント010

 ボードリヤールといえば、現代思想を語る上で欠かせないフランスの哲学者であり、日本でもその著作が数多く翻訳されています。とりわけ、『消費社会の神話と構造』は、資本主義における消費のメカニズムに対する理解を根本から覆す衝撃的なものでした。ただし、ボードリヤールについて語られた本というのは日本では見当たらず、おそらくこの本が初めてといってもよいのではないかと思います。

 早稲田大学塚原史教授によるこの著作では、『物の体系』→『消費社会の神話と構造』→『象徴交換と死』『シミュラークルとシミュレーション』→『アメリカ』・・・と続いてきたボードリヤールの著作が、丹念にかつ分かりやすく紹介されており、難解なボードリヤールの著作に取りかかる前には必読といえるかもしれません。

 以下、この本に依拠する形で、ボードリヤールの思想について見ていきたいと思います。

 ボードリヤールの生まれた家は決して名門でも裕福でもなく、もともとは都市近郊の農民であったようです。彼はその後、有数の進学校であるリセに進み、その後、エコール・ノルマルには進まず、地元の大学で学んだ後、国家試験を受けてドイツ語教員資格を取得します。

 そして、マルクス主義やサルトルの影響を受け、その後ロラン・バルトに大きな影響を受けることになります。ボードリヤールの『物の体系』は、バルトの『モードの体系』の引き写しとすら言えたわけです。

 『物の体系』の中でボードリヤールは、消費を言語活動として捉えている点に特徴があります。

 ボードリヤールの挙げるコーヒーミルの例にならっていえば、電動のコーヒーミルの本質は豆を挽くためのモーターであるわけですが、消費者はそうした性能の差異よりもむしろ、デザインの差異によって製品を区別するわけです。つまり、記号内容(シニフィエ)よりも記号表現(シニフィアン)の方にこそ消費活動の本質があるといえるわけです。

「…消費という言語活動は、モノのデザインというシニフィアンをつうじてラングの体系からパロールの体系へと移行してゆくことが理解されるだろう。そして、言語活動のこの種の論理に従って「語られた(=パロール化された)モノのシステム…が「モノの体系」を構成することのうちに、ボードリヤールは消費社会の大きな特徴を見出している。」(塚原『ボードリヤールという生きかた』p41)

 ボードリヤールはこれを「機能からのモノの解放」として捉えます。そして、モノとそのネットワークが主体=人間から自立した社会関係を提案して実現することを現代社会の最大の特徴とみなしているわけです。

「消費とは、あらゆるモノとメッセージが、いま、ここから、多少なりとも一貫性のある言説として構成されて成立するヴァーチャルな全体性のことなのである。消費は、それが何らかの意味をもつかぎり、記号の体系的な操作の活動となる。」(塚原前掲書p49−50(『物の体系』からの引用))

 さて、次にボードリヤールが世の送り出したのは『消費社会の神話と構造』です。

消費社会の神話と構造 普及版

消費社会の神話と構造 普及版

 ボードリヤールはこの本の中でまず、時代の最先端の消費社会が一番原始的な「未開社会」として立ち現れることに注目します。そこでは、消費者は自立した個人として理性的にふるまうのではなく、贈与のイメージに幻惑されてモノのジャングルの中を彷徨うことになります。

「人間が合理的主体となって客体であるモノの生産と消費を管理するというよりはむしろ、モノたちのほうが人間生活を支配するようになるのだ」(塚原前掲書p74)

 こうして、現代社会は巧妙な管理社会へと変貌していきます。人々は消費社会の中で消費を強制されることになり、消費者としてのふるまいを身に着けなければならなくなるわけです。

 さらに、人々は差異の記号としての消費を通じて、人々自身が記号化されてゆくことになります。

「モノの記号化の過程が、もはやフィクションでしかない人間的諸価値を記号化するプロセスであった」(塚原前掲書p85)

というわけです。

 こうした事態は、つまりマルクスの労働疎外とは次元の異なる、人間の記号化と差異のシステムへの組み込みという新たな疎外状況といえるわけです。

 こうしてボードリヤールは既存のシステムへの批判を展開してきたわけですが、さらに、こうした思想を『象徴交換と死』において新たな問題設定を行っていきます。

象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

象徴交換と死 (ちくま学芸文庫)

 「象徴交換」とは、南太平洋のトロブリアン諸島のクラの交換や、北西アメリカ先住民のポトラッチなど、文化人類学の世界で観察されてきた、贈与と返礼をつうじた交換形態のことを指します。つまり、近代社会の「等価交換」とは異なり、原則として貨幣を仲介しない儀礼的な交換です。

「近代の社会形態においては、社会を組織する形式としての象徴交換はもう存在しない。とはいえ、象徴的なものは、死がとりつくように近代社会にとりついている。」(塚原前掲書p100(『象徴交換と死』からの引用)

というのが、この本のテーマです。

 ここで「シミュラークル」という概念が登場します。それは「現実の記号化の操作」を意味するわけですが、ボードリヤールはこの「シミュラークル」の歴史的発展を

①自然的価値法則に基づくシミュラークルである「模造」
②商品的価値法則に基づくシミュラークルである「生産」
③構造的価値法則に基づくシミュラークルである「シミュレーション」

の3つに分類します。

 それぞれの概念の説明は省略しますが、問題となるのは第3のシミュラークルである「シミュレーション」です。これは第1、第2のシミュラークルとは異なり、

「現実との対応関係から解放され、もはや現実を反映する必要のない純粋な記号」(塚原前掲書p111)

です。

 このシミュレーションの時代においては、世界はその等価物を失い、生産中心の単純な経済原則に基づく等価交換はもはやフィクションでしかなくなってしまいます。
こうした時代においては、記号化を通じた等価交換を拒否する「象徴交換」が再び登場してくることになります。

 こうした「象徴交換」の突出が9・11テロだという見方も成り立ってくるわけです。塚原教授は、次のように述べています。

「貨幣との取り引きを拒否し、みずからの死との象徴交換をシミュレーション社会に要求するこうした行動原理がやがて9・11とその後の自爆テロの連鎖につながってゆくとすれば、象徴交換と死の提案は、けっして未開の幻覚ではなかったことになるだろう。この意味で、かつては未開社会の習俗だった象徴交換がシミュレーションという最終段階の複製装置と、現代的システムの中枢であり、最先端であるマンハッタンで劇的な出会いをとげるという歴史の展開は、運命的でさえある。」(塚原前掲書p124)

 映画『マトリックス』が、ボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』から重要な着想を得ていることは割と知られている事実かもしれません。

 『マトリックス』については以前の記事の中で触れたことがありますが、人々が現実とばかり思っていた世界が実は人工知能が仕組んだ虚構だった、という設定の映画です。この映画のこうした設定がボードリヤールの『シミュラークルとシミュレーション』から着想を得ていること自体、何ら不思議はないのですが、ここで重要な点は、ボードリヤールの『マトリックス』に対する否定的な反応でしょう。

 ボードリヤールは、シミュレーションというのは現実そのものが消滅する新しい次元を意味しているのに対して、映画では現実が残存していて、現実を取り戻そうという設定になっているところに、決定的な溝があるわけで、それがボードリヤールの映画に対する否定的な反応につながっているというわけです。これは、ボードリヤールのいうシミュレーションを理解する上で欠かせないエピソードのように思います。

 さて、その後80年代に入ると、ボードリヤールは、アメリカ大陸を西海岸から東海岸まで横断して『アメリカ』という本を書いたりします。

 そして、90年代に入ると、ボードリヤールは、それまでのキーワード「差異」から、新たなキーワード「他者」へとシフトしていきます。

 これはフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」とも関係してくるのですが、冷戦の終結後、リベラルな民主政治が勝利しヘーゲル的な二項対立が終焉したかのような世界にあっては、悪と否定性は追放され、本質的な対立がなくなったかのように見えるわけですが、実は、ネガティヴなパワーを消去し、ポジティヴな価値だけを受容するシステムは、重大な危険に晒されることになります。なぜなら、追放されたはずの悪は「透きとおった悪」となって、社会の身体の奥深くへの進入を開始するからです。

 つまり、現実と幻想、自己と他者といった二項対立がその根拠を失ってしまったことから、我々は何が現実か現実でないかの座標軸さえも喪失してしまい、不安定で不確実な社会へと移行してしまったというわけです。そして、現実は抹殺されてしまったにもかかわらず、その「死体」も発見されないという不可思議な状況は、ボードリヤールの著書のタイトルでもある「完全犯罪」そのものではないかというわけです。

 こうした不安定なシステムの中では新たなゲームが開始されます。それが9・11であった、それがボードリヤールの思想の帰結です。

「それを実行したのは彼らだが、望んだのは私たちのほうなのだ」

というボードリヤールの「名言」は、こうした長年の思想に裏付けられていたわけです。ボードリヤール9・11の予言者のように言われるのは、彼のそれまでの言説の中で他者の大いなる復讐について言及してきたからです。

 以上、塚原教授の著作に依拠しながら、ボードリヤールの思想を追ってみました。彼は未だに言論界の第一線を占めているといえますが、ボードリヤールが今日でも生き生きとして言論活動を続けているのは、こうした長年の思想の延長線上に、今日の社会状況が適合してきているからかもしれません。

 ボードリヤールはかつての一時のブームのように受けとめるむきもありますが、私は決してそうは思いません。

 今日の社会はますますシミュレーションの様相を呈してきているような気がしますし、強大なアメリカ中心のシステムに対する反発も強まっているように思われ、現代社会を分析する上で、ボードリヤールの思想はやはり欠かせないというべきでしょう。