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映画、書評、ジャズなど

菊池理夫「日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門」

日本を甦らせる政治思想~現代コミュニタリアニズム入門 (講談社現代新書)

日本を甦らせる政治思想~現代コミュニタリアニズム入門 (講談社現代新書)

 この本は、良くも悪くも、コミュニタリアニズムについて考えさせられるものでしたので、御紹介したいと思います。

 現代のコミュニタリアニズムというのは、コミュニティの共通の利益としての「共通善」を何よりも追求する考え方です。著者によれば、この「共通善」に対する誤解や偏見が多く見られると述べています。そして、コミュニタリアニズムが伝統的な「共同体主義」として、保守的な「右派」とみなされていると述べ、現代のコミュニタリアニズムは、平等で民主的なコミュニティを求める「中道左派」であることを強調しています。

 このコミュニタリアニズムのルーツについては、この本の中で分かりやすくまとめられています。主な論者としては、『美徳なき時代』を書いたアラスディア・マッキンタイア、『自由主義と正義の限界』を書いたマイケル・サンデル、『正義の領分』を書いたマイケル・ウォルツァー、そしてチャールズ・テイラーらが取り上げられています。

 例えば、マッキンタイアは、ギリシアのアリストテレス哲学を高く評価し、人間の本性とは、名誉や快楽、金銭などのような「外的な善」ではなく、コミュニティ全体にとっての善である「内的な善」を追求する得を所有することにあるとする考え方をとっています。

 また、サンデルは、ロールズの『正義論』を批判し、人間とは自己が所属するコミュニティによって自己のアイデンティティが形成される「間主観的」な存在である、つまり我々は特定のコミュニティやその歴史や伝統などを共通してもつ「負荷ある自我」であるという考え方をとります。サンデルは、リベラリズムが重視する「正義」ではなく、「善」を重視し、また、地域社会のような中間的な形態のコミュニティの重要性を指摘します。

 つまり、コミュニズムというのは、人間の共通性を追求し、それをコミュニティの中で「共通善」の形で実現していこうという考え方であるといえます。菊池氏は次のように述べています。

「…人間は、相互のつながりを欠いて、自分の権利や利益だけを追求し、自分の権利や利益を守るために、自己決定によって、「政治的コミュニティ」に加わる「原子論」的個人ではありません。
 むしろ、言語、歴史、伝統、コミュニティ、倫理(善悪)などの「負荷」が共通に与えられた存在です。そのような負荷から、自己と他者の「関係性」や「共通性」を意識して、自分が帰属するコミュニティをともに形成し、「共通善」の実現をめざして、コミュニティに対する責任を果たしていく政治的存在です。」(菊池「日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門」p50)

 こうした人間観がコミュニタリアニズムを形成しているわけです。

 私はコミュニタリアニズムについてほとんどよく知らないのですが、リベラリズムが人間を原子のようにバラバラな存在として捉える傾向にあるのに対し、人間の共通性を追求しようというコミュニタリアニズムの考え方には、私も大いに共感する面があります。

 先般御紹介した平成19年版の「国民生活白書」でも「つながり」がキーワードとなっていたように、今日の社会は、市場メカニズムの追求の行き過ぎによって、人間同士の「つながり」が損なわれつつあり、コミュニティを再構築しようというコミュニタリアニズムの方向性は、今日の情勢にマッチしたものであると言えます。

 しかし、「共通善」が何かを決めることは相当程度に難しい作業であると言わざるを得ません。

 まず、どのレベルのコミュニティにおいて「共通善」を実現するのか、という問題があるように思われます。例えば、この本の中では、マッキンタイアによれば「愛国主義」も「美徳」であり、テイラーによれば「共通善」であると書かれていますが、そうなると、コミュニタリアニズムは「ナショナリズム」に近い面を持つことになります。もちろん、ナショナリズムを一概に否定するつもりはありませんが、コミュニタリアニズムが「共通善」を実現しようとするあまりに、「共通善」に賛同しない人たちに対して「共通善」の実現を強いることにもなりかねません。
 もちろん、「共通善」がどのようなものなのかにもよると思われますが、「共通善」の中身によっては、コミュニタリアニズムナショナリズムの不寛容性を煽ることになってしまうのではないかという危惧を感じます。

 しかも、どのような手続を経て、「共通善」を決めるかはさらに至難の業でしょう。

 この本の中で菊池氏は次のように述べています。

「いずれにしても、価値中立的な政府というものはありえません。政党政治、議会政治も特定の原理、価値をめぐる闘争でもあります。ただ、そのさい、与党の価値観、ヴィジョンは多数決によって選ばれたものであるとしても、そのコミュニティ全員の価値、「共通善」として、受け入れられるのです。
 これは「全体主義」ではありません。たとえば議会で多数決によって決められた法律に全員が従うことが要求されることは全体主義でしょうか。また、「国民主権」も個々の国民ではなく、あくまで総体としての、つまり全体としての国民であることを理解できていないのでしょうか。」(前掲書p188)

 これだけ読むと、多数決によって選ばれた与党が決める価値が「共通善」だということになるように見受けられますが、そうだとすれば、ちょっと違うのではないか?と首をかしげざるを得ません。「民主主義」に対する理解が楽観的に過ぎるのではないかという疑問を持ってしまいます。

 この本の中では、コミュニティの「共通善」を重視する現代のコミュニタリアニズムは「多文化主義」とも関連すると述べられていますが、選挙による多数決の結果で「共通善」が決まるということと、「多文化主義」とがどのように両立するのかについては、正直よく分かりませんでした。

 つまり、様々な価値が共存する社会においては、「共通善」の実現を図るだけでなく、少数者の意見をどのように汲み取っていくかという重大な課題が存在するわけです。コミュニタリアニズムがこの課題をどのように克服していこうとしているかは、極めて大きな問題として残されているのではないかと思います。

 この点、東京大学長谷部恭男教授の立憲主義に対する考え方の方が、私にははるかに説得力があるように思います。

憲法とは何か (岩波新書)

憲法とは何か (岩波新書)

 長谷部教授は、異なる価値観・世界観は互いに比較して優劣をつけることはできないとしつつ、

「しかし、人間らしい生活を送るためには、そうした各自が大切だと思う価値観・世界観の相違にもかかわらず、それでもお互いの存在を認め合い、社会生活の便宜とコストを公平に分かち合う、そうした枠組みが必要である。」(長谷部「憲法とは何か」p9−10)

として、立憲主義の意義を説いています。

「そのために立憲主義がまず用意する手立ては、人々の生活領域を私的な領域と公的な領域とに区分することである。私的な生活領域では、各自がそれぞれの信奉する価値観・世界観に沿って生きる自由が保障される。他方、公的な領域では、そうした考え方の違いにかかわらず、社会のすべてのメンバーに共通する利益を発見し、それを実現する方途を冷静に話し合い、決定することが必要となる。」(前掲書p10)

 つまり、コミュニタリアニズムが価値の共通性の追求を重視するのに対して、長谷部教授は、むしろ価値の多元性を重視しつつ、そうした多元的な価値の中で人々が人間らしく生活する術としてやむを得ず公的な領域において共通の利益をいわば消極的に見出す必要があるのだとしているわけです。

 民主主義の中においてコミュニタリアニズムをどう実現するのかという課題は極めて深刻であるにもかかわらず、この本からはこの点についてコミュニタリアニズムが深刻に捉えているようにはあまり伝わってきませんでしたが、引き続き、コミュニタリアニズムの議論の方向性について注目していきたいと思っています。