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新型コロナ禍考

今、新型コロナへの対応で世界中が大混乱に陥っています。平日の昼間なのに閑散とする都市の光景は衝撃的です。SF映画に出てくる最終戦争後の廃墟を目の当たりにするようで、背筋がぞっとする思いがします。街を歩いても、ほとんどの飲食店は閉まっており、たまに開けている飲食店も、どこかうしろめたさと感じながら営業しているような状況です。

我々人類は、これまでに数々の困難を克服してきました。多くの戦争を乗り越え、東日本大震災のような圧倒的な天災にも打ち勝ってきました。しかしながら、今回の新型コロナへの対応は、こうした過去の事象とはかなり違ったものになりそうな気がしています。

今回の新型コロナがこれまでの災害とは明らかに大きく異なる点は、終わりがはっきりしないということです。新型コロナウイルスは、アフリカや東南アジアを含む世界中のあらゆる地域で猛威を振るっていますが、そうだとすれば、季節的な要因で終息することは考えにくく、ウイルスを根絶することはおよそ期待できないことになります。

となれば、新型コロナは、インフルエンザや他の多くの感染症と同様に、この先もずっと人間社会の中に生き続けるでしょう。いずれ有効なワクチンはできるかもしれませんが、それも何年先になるか分かりません。一旦抗体ができれば罹患するリスクがなくなるかどうかもはっきりしません。その強力な感染力を持って、これからもしばしば爆発的な感染が起こることが予想されます。つまり、これから先の人類は、生き残った新型コロナがいつ再び爆発的に広がるかという恐怖と常に隣り合わせで生きていかなければならないということになります。

少なくとも、今言えることは、新型コロナは完全に終息することは見込めず、人類は新型コロナと共存していかなければならず、そして、新型コロナへの対処は、人間社会の在り方を根本的かつ永続的に変えてしまうだろうということです。

新型コロナが飛沫感染のウイルスである以上、おそらく、人間社会が元の社会生活を完全に取り戻すことはないでしょう。人々は、他人が新型コロナウイルスを持っているかもしれないという疑念を常に潜在的に抱きつつ、他人と接することになるでしょう。今までのように、仲間とハグをしたり、気軽に握手したりすることがためらわれるばかりでなく、そもそも会議室に集まることや、飲食店で仲間と飲むことすら、ためらわれるような社会がこれから先ずっと続くように思われます。気軽に旅行を楽しむこともできなくなるでしょう。仕事の出張すら控えなければならないでしょう。人類がこれまで進めてきたグローバル化の試みはあっさりと否定され、再びローカルな世界に向かっていくことになると思われます。

 

【3つの分断】
そして、今我々が直面しつつある最大の課題は、社会の分断かもしれません。それは徐々に顕在化しつつあるように思います。大きく以下の3つの分断が考えられるように思います。

(1)職業間の分断
新型コロナによる自粛要請は、今多くの人々の生活を困難な状況に追い込んでいます。最も打撃を受けているのは、外食産業でしょう。外食産業は、人間社会が文化を形成する場として重要な機能を持っています。レストランや居酒屋に多くの人々が集い、酒を酌み交わしながら団らんすることで、文化が形成されてきたわけです。しかしながら、今や、新型コロナの影響で、人々が集うこと自体が否定されています。これまで文化を形成してきた重要なインフラの存続すら危ぶまれる状況となってしまっているわけです。多くの飲食店は、店舗を借りて営んでいるわけですから、毎月の家賃を支払わなくてはなりません。十分な内部留保がない飲食店にとっては、売り上げが一定期間途絶えれば、即廃業にならざるを得ない飲食店も多いはずです。そして、外食産業は多くの雇用を支えています。飲食業でアルバイトをして学費を稼いでいる学生たちも大勢います。新型コロナによる自粛は、そうした飲食店の従業員たちの生活も崩壊させてしまっています。

困窮に追い込まれているのは外食産業だけではありません。人の密集が必然的に伴うエンターテイメント業界も然りです。ライブハウスで盛り上がることも、大ホールでコンサートを鑑賞することも、映画館や劇場に集まることさえも、今後はためらわれるかもしれません。

こうした中、自粛要請に従わない飲食店に対しては、“自粛警察”と呼ばれるような誹謗・中傷が行われるようになっています。自粛はあくまで要請に基づくものですから、当然、従う人と従わない人が出てきます。でも、それは自粛であることの必然ですし、何よりも、多くの飲食店にとっては、自粛することが死をもたらすわけですから、自粛に従わないことを批判すればよいということにはなりません。こうして、社会にいがみ合いが生まれるリスクが高まっています。

これは、同じ業種の中での分断にもつながる面があると同時に、異なる業種間の分断という面があります。つまり、今自粛の中で深刻な打撃を一心に受けているのが、外食産業を始めとするサービス産業です。当然、それ以外の業種との間の不公平感を感じないわけがありません。ただでさえ、外食産業は零細経営が多いわけですから、こういう状況が続けば、いずれ相当な不満がたまってくるでしょう。


(2)世代間の分断
こうした社会の分断は、深刻な世代間の闘争にもつながる要素があります。つまり、高齢者は新型コロナに感染すれば重篤化するリスクが高いのに対し、多くの若者たちは、新型コロナに感染しても重篤化する確率は低いわけですから、何のために自粛をしているかといえば、高齢者を守るためという面もあるわけです。

今は、多くの若者たちもそれを理解しながらも自粛要請に従っています。しかし、こうした状況が長期化すれば、やがて不満が溜まっていくことは容易に想像がつきます。自粛によって、多くの若者たちが、娯楽の場を失っています。飲食店や友人宅に集って盛り上がることもできず、エンターテイメントも奪われ、スポーツ活動もできず、学校にすら登校できず、友達とも会えない状況が続いているわけです。終わりがはっきりしているのであればまだ我慢のしようがありますが、いずれ、そうした我慢にも限界が来るでしょう。そうなると、不満の矛先は、高齢者に向かうということにもなりかねません。

(3)地域間の分断
また、新型コロナは地域間の分断も生みかねません。今、地方では、大都市圏から入ってくる人たちが新型コロナを持ち込むのではないかと強い警戒感を抱いています。玄関口の駅や空港で体温測定をする光景も見られます。県境で検温しようとした県が批判されて撤回するという事態も見られました。同じ国の人々であるにもかかわらず、こうした状況が生まれることは、日本が近代国家になってから初めての経験かもしれません。こうした疑心暗鬼は、社会に深刻な分断を生みかねません。

緊急事態宣言が解除されたとしても、こうした互いの疑心暗鬼はなかなか解消されないでしょう。地域で再びコロナ感染が広がれば、誰が持ち込んだかという犯人捜しが益々激しくなることは目に見えています。

このコロナ禍は、自由な移動に慣れた人々にとっては、深刻な試練です。自由な移動こそが自由な人間の最大の象徴です。それは、我々が当たり前のように享受してきた権利です。少なくとも、同じ国の中の移動は、何一つ制約なしにできたわけですが、そうした自由が今失われつつあるわけです。しかも、自粛という名の下に。現代人がいつまでこうした不自由さを甘受できるのか。おそらく、そう長くはないでしょう。

 

以上のような分断は、緊急事態宣言が長期化し、こうした自粛要請が続けば続くほど、深刻なものとなっていくでしょう。

 

【政府の対応は十分か?】

今、政府は関係省庁一丸となって、新型コロナへの対応に当たっています。地方政府も同様でしょう。多くの公務員が昼夜を問わず、休日返上で対応に当たっていることは事実です。かつては、多くの志の高い優秀な学生が国家公務員を志望し、基本的には途中で辞めること少なく、国家公務員として退職まで職を全うするという形態が一般的でしたが、今は、多くの優秀な若者が次々と高給な外資系企業に転職していきます。そういう状況であるにもかかわらず、こうした困難な状況の中で、多くの公務員が職を投げ出すことなく、身を削って新型コロナ対応に当たっているということは、大変心強いことであり、こうしたシステムを平時からきちんと構築しておかなければ、有事の際に的確に対応できないということを改めて実感します。

ただ、今回の政府の対応を見ていると、情報発信の下手さはやはり指摘せざるを得ません。特に、官邸の情報発信には大いに問題があります。側近の進言によるとされる試みが悉く不評を買っていることは、真摯に受け止めなければなりません。

一番心配なのは、有事におけるオール政府による対応の仕組みが機能していないのではないかという疑問です。こういう有事の際の対応は、内閣官房が中心となって関係省庁横断的な施策を取りまとめることが想定され、政府の組織は作られています。通常であれば、内閣官房にできた対策部署が中心になるわけです。ところが、今の政府の対応は、毎日のように、総理の下に関係省庁の幹部が集まり打ち合わせをしているという状況であり、その場を総理秘書官が仕切るという構図です。いきなり総理の面前で打ち合わせをやるわけですから、事前にそれを仕切るという仕組みが機能しておらず、とにかく、毎日行き当たりばったりで総理の前で関係省庁が説明をするというやり方です。

本来、こうした施策を取りまとめるのは、内閣官房長官の役割であることは言うまでもありません。官房長官の下に副長官がおり、その下に副長官補がいて、関係省庁に睨みをきかせながら、困難な施策を取りまとめるというのが、有事における本来のやり方であり、そういう前提で組織が構築されてきたわけです。

にもかかわらず、今回、そうした仕組みがすっ飛ばされて、いきなり総理の面前で打ち合わせが行われ、権力を持った総理秘書官が仕切るという、本来想定されていないやり方が行われているわけです。そこでどういった議論が繰り広げられているかも、議事録も残りません。

こうしたやり方によって、機動的な決定が可能になれば、よい方向に回ることももちろんあり得るのですが、今回の対応を見るにつけ、むしろマイナスの面が出てしまっているように思います。総理側近による稚拙な施策PRがその典型です。

私は、むしろ、この対応に当たっては、もっと官房長官に前面に出てきてもらって、関係省庁に睨みをきかせながら、政府全体のあらゆる政策リソースを総投入するやり方にシフトしていくべきではないかと思います。そうなれば、思い付きのようなちぐはぐは施策をだいぶ減っていくのではないかと思います。

 

【緊急事態宣言解除後の社会ビジョン】

今、世間では、いつ緊急事態宣言が解除されるのかが大きな関心事となっています。しかし、重要なのは、緊急事態宣言解除後の社会がどうなるかです。新規感染者数が何人以下になれば解除とか、接触8割減が達成されたら解除、といったような議論がいかにナンセンスかは、少し考えれば分かります。それが達成されて、人々が今まで通りの生活に戻った途端に、再び感染が拡大するリスクがあることは目に見えています。海外から来日する人々が存在する限り、また変異したウイルスが蔓延するおそれもあります。

そう考えると、緊急事態宣言が解除されれば元通りの生活が戻ってくるというわけではないことは明らかであり、そのことは誰しもが薄々感じているのではないかと思います。

緊急事態宣言は、おそらくGW明けも継続されるでしょう。報道ベースでは、1か月延長とも言われています。これまで人々は、5月6日までということで耐え忍んできました。専門家チームが指摘する接触8割減を実現するため、サービス業を中心として、身を切る覚悟で協力してきたわけです。それがある程度功を奏してきたにもかかわらず、政府が1か月延長という判断をすれば、おそらく、多くの国民は、自粛への協力する意欲を失うことになるでしょう。サービス業の方々は、十分な補償もない中、命がけで自粛へ協力しているのですから、政府は、もし緊急事態宣言を延長するのであれば、どういう状況が訪れれば緊急事態宣言を解除するのかについての明確な基準を説明することが必要です。そうした説明がないままに1か月もの延長が決まれば、生活に困窮した人々による暴動が起こっても不思議ではありません。そうした先の見通しを示すことが政府の役割であるにもかかわらず、それが十分できているとはとても思えません。

 

【2つの方向性 ~「監視社会」か?「非接触社会の構築」か?~】
コロナがわずかでも存在し続ける限り、いつ再び爆発的に感染が拡大するかは分かりません。そうした脅威がある以上、人々はこれまでと全く同様に、自由に集まり、自由に移動するというわけにはいかないでしょう。コロナとの共存というのはそういうことです。

私は、緊急事態宣言の終了後の社会の姿として、2つの方向性が考えられるのではないかと思います。

(1)「監視社会」

その一つは「監視社会」の進展でしょう。要するに、しかるべき監視機関が常時人々の健康をチェックし、移動を事細かく制限するやり方です。このやり方は、既に中国や韓国で試みられつつあります。

中国の北京では、「北京健康宝」というパスポートのような仕組みの構築が始まっているようです。市民は毎日、体温や移動歴を、インターネットを通じて当局に報告し、個人の健康状況と居住地域のリスク区分を考慮して、その人物の移動の可否を判断するという仕組みのようです。このデータは、北京との他の都市との間の往来の判断に用いられるだけでなく、オフィスビルやショッピングモールの出入り可否の判断にも用いられると聞きます。

つまり、市民の健康状態、移動歴が事細かく当局によって把握され、管理されることで、人々の安全・安心が守られるというわけです。

これは、ある意味で、当局の指示に従って動けばよいので、実効的な面はありますが、反面、これまで人々が勝ち取って来た様々な自由を放棄するという面もあります。

西欧諸国では、個人情報保護に対する意識が過度に高い面があります。だから、様々なビッグデータの使い道も限られてしまい、データ解析の技術の進展に対する大きな障壁となっています。一方、中国のように個人情報保護に対する意識が薄い国においては、政府や企業は自由にビッグデータをAIによって解析できるので、その技術は格段に進歩します。情報利用分野で圧倒的に中国が先に行っているのは当然です。

新型コロナ後の社会においては、日本でももう少し、個人情報保護に対する意識を緩めてもよいのではないかという気がします。かつては、各家庭に電話帳が配布されるなど、誰でも他人の住所や電話番号を知り得る時代がありました。そうしたやり方はもちろん現在では通用しないことは当然ですが、それにしても、現在の個人情報保護意識は過剰だと思いますので、日本でもそれをもう少し見直すきっかけになってもよいのではないかと思います。

(参考)中国の対応については、以下のサイトが参考になります。

市民の外出時の新習慣、「北京健康宝」というアプリ【コロナと闘う世界の都市から】| Topics | Pen Online


(2)「非接触社会の構築」

緊急事態宣言後の人々の行動を自発性に委ねるにしても、その行動様式はこれまでと大きく変えていかなければならないでしょう。とにかく、接触の機会を減らすようなコミュニティの在り方を模索していく必要があるでしょう。

一番変えていく必要があるのは、働き方の面でしょう。これまでのように、毎日わざわざ通勤電車に乗ってオフィスに行って、顔を突き合わせて会議や打ち合わせをするというやり方は、かなり変わっていくように思います。zoomやSkypeを使えば、案外気軽に会議ができるということに、多くの人々が気付いたという面は大きいと思います。飲み会ですらzoomでできてしまうことが分かってしまったわけです。

こうして、仕事のやり方は、圧倒的にリアルからバーチャルへ急速に転換していくことになるでしょう。これは、負の面というよりも、むしろメリットとして捉えるべきだと思います。オフィスに通わなくてよくなれば、大都市に生活する必要もなくなり、Wifi環境さえ整っていれば、田舎でも仕事ができることになります。職住近接どころか、職住一致という形態が一般的になる可能性もあります。オフィスの賃料も安くなるでしょう。組織の在り方も、縦方向の関係がより水平的な関係に変化していくことで、柔軟かつ機動的な意思決定が可能になっていく場合もあると思います。仕事で出張することも、かなり減っていくでしょう。特に、海外出張の機会は大きく減少することが予想されます。海外のクライアント等との打ち合わせは、基本的にzoomなりSkypeで行われることになると思われます。

こうした非接触な方向性は、仕事だけでなく、地域コミュニティにおいてもそうなると思われます。つまり、これまでのような距離的な近さに基づくコミュニティは、基本的に崩壊していくことになるでしょう。学校の授業もオンラインでできてしまうので、学校に毎日通う必要性は薄れるでしょう。

 

もちろん、「監視社会」か「非接触社会の構築」かのどちらか一つということではなく、むしろ、両方の良い面を巧みに取り入れていくというのが、新型コロナ後の社会の在り方ではないかと思います。「監視社会」というと、かつてフーコーが論じたような暗いイメージが醸し出されますが、ある程度の割り切りさえできれば、利便性も大きいはずです。むしろ、個人情報が当局によって悪用されないようにきちんと見張ることが重要であるように思います。

また、この際、これまでなかなか払拭できなかった過去のルールや習慣(例えば、印鑑文化、職場の不要な飲み会、大都市圏への集住、過度な近所付き合い、終身雇用制、過度な個人情報保護、等々)を変えていくというポジティブな発想で我々は新型コロナ後の社会の在り方を構想していくべきだと思います。

我々は、そろそろ、新型コロナ後の社会を構想し始めるべきだと思います。これは、もちろん、政府の責任でもあるわけですが、それだけじゃありません。本来であれば、論壇で、文明論も含めた大局的な観点からこうした議論が繰り広げられるべきですが、今日、日本の論壇は壊滅的状況です。かろうじて、SNSの議論の場が残っている程度です。

 

これ以上、緊急事態宣言を長引かせれば、益々不要な社会の分断が進んでいってしまいます。政府は、早く、新型コロナ後の社会ビジョンを示し、今のような過度な自粛を一刻も早く緩和してく道筋を示し、人々に明るい展望を示していくことが必要だと思います。

 

人類は、これまでも、多くのウイルスと共存してきました。時には、戦争による死者を大幅に超えて、感染症による死者がもららされることもありました。文明が感染症によってあっという間に滅びることもありました。人類は農耕生活を選択し、森を伐採して定住して農業を営んできましたが、その代償として、未知のウイルスとも遭遇し、その返り討ちを受けてきたわけです。また、人間の体内にはピロリ菌を始めとする多くのウイルスが住み着いているわけです。人間はそうしたウイルスと戦い、時に免疫で打ち勝つ反面、共存もしてきたわけです。

新型コロナウイルスだけが、人類が立ち向かえないウイルスであるわけはなく、いずれ、人類と新型コロナウイルスとの共存の在り方が見えてくるのではないかと思います。