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カミュ「異邦人」

 

異邦人 (新潮文庫)

異邦人 (新潮文庫)

 

 何十年ぶりに読み返してみましたが、とても考えさせられる話です。

 

主人公ムルソーのもとに、養老院に入っている母親が死んだとの知らせがあった。淡々と葬儀が執り行われたが、不思議とムルソーには悲しみの感情が湧いてこなかった。翌日、ムルソーは海水浴場に行き、恋人マリイと一緒に戯れていた。

その後、ムルソーは、友人のあるトラブルに巻き込まれ、アラブ人を射殺してしまう。

ムルソーは取り調べの中で反省の態度を示さず、自分の置かれた立場を冷静に眺めていた。裁判では、こうしたムルソーの態度に加え、ムルソーが母親の死の際に冷淡であり、翌日に恋人と戯れていたことが大きな判断材料となり、死刑の宣告を受ける。。。

 

ムルソーが殺人の動機として、

「それは太陽のせいだ」

と述べた場面は有名です。

 

マリオ・バルガス・ジョサは『嘘から出たまこと』の中でキレのある書評を書いています。

 

嘘から出たまこと (セルバンテス賞コレクション)

嘘から出たまこと (セルバンテス賞コレクション)

 

ムルソーがなぜここまで糾弾され、死刑を宣告されなければならなかったのかについてですが、ジョサは以下のように述べています。

 「ムルソーの事件は、人間関係を維持するには「演技」が、フィクションが、はっきり言えば嘘が必要であることを痛ましいほどはっきり物語る。社会的共存のためには感情を隠すことも必要であり、たとえばそれが個人の目からは空虚でわざとらしい儀礼にしか見えなくても、共同生活の見地からは意味深い、必要不可欠な行為となる。偽りの感情こそ共同体の掟を支える慣習にほかならないし、言語などの制度と並ぶ一見空虚なしきたりなしに人間の共同生活は成り立たない。誰もがムルソーのように本能だけで動けば、家族制度のみならず社会全体が崩壊し、浜辺でアラブ人を殺す男さながら、日常的に不条理な殺し合いが起こる世界になるだろう。」

 つまり、ムルソーは、犯した殺人という罪そのものよりも、共同生活を成り立たせる上で必要な「演技」を行わなかったことを糾弾されたという見方です。

ムルソーの態度で問題とされたのは、ごく当たり前に、特に意識せぬまま社会の掟を拒否し、集団生活を支える礼儀作法を撥ねつける部分であったわけで、こうした受身の態度、無関心のほうが、裁く側の人間には重大問題と映ったのだというのが、ジョサの主張です。

こうして考えると、この作品になぜ『異邦人』というタイトルが付けられたかがよくわかります。

 こうして、集団生活の中で人々が本能と欲望の権利を抑圧されている状況の中、カミュは反抗を呼び掛けているとジョサは解しています。

「『異邦人』を支配する実存主義的ペシミズムのなかにも、微かな希望の火が燃えている。それは諦めでなく光明であり、憐れみで犯罪者の心を手懐けようとした司祭への怒りを鎮めたムルソーが、あの美しい最終段落で落ち着き払って「世界の優しい無関心」に晒された男としての運命を受け入れる場面に現れる。

カミュのペシミズムは敗北主義ではない。それどころか、行動への、より正確に言えば、反抗への呼びかけを孕んでいる。小説を読み終わった読者は、ムルソーを前に複雑に入り組んだ感情を抱くだろうが、いずれにしても、世界には不備があり、変革が必要であるという確信だけは間違いなく植え付けられるだろう。」

 名作だけに、考えれば考えるほど奥が深い作品です。