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東浩紀「一般意志2.0」

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル

 最近Googleで検索語を入力すると、それに関連する可能性の高い語が続けて表示されるというグーグル・サジェスト機能が導入されていますが、これは利用者の検索傾向を基に構築されているわけです。

 本書において著者の東氏は、こうした近年の情報技術の進展を踏まえ、これを大衆の無意識と捉えて、ルソーの一般意志の概念を再読することにより、民主主義の政策決定過程に位置付けようとしています。

 東氏の主張は極めてシンプルです。これまで民主主義の基盤として強調されてきた熟議が機能していない状況を目の当たりにし、新たに大衆の意志をデータベース化したものを新たに政治プロセスに導入し、熟議とデータベースが抗争し、補い合うことによって政策が形成されていくような民主主義を構築していくべきだというのが、東氏の主張です。

 大衆の意志のデータベース化というのは、先に挙げたグーグル・サジェスト機能がその一例ですが、例えば、ニコニコ動画における同時ツイート機能もその一例として挙げられます。それは、一般大衆が何気なくつぶやいたものの集大成といってもよいでしょう。それを数学的に処理したものこそが、東氏の想起するデータベースです。東氏のイメージは、国会審議や仕分けの場において、議場に同時並行的に視聴者のつぶやきが表示され、それが国会議員の政策審議にプレッシャーを与える、そんな民主主義です。

 この東氏の着想は、ルソーの一般意思を再読解したものがベースとなっています。ルソーは個々人の意志である特殊意志の総体である全体意志と一般意志とを区別しています。ルソーは一般意志を、特殊意志の総和ではなく、相殺し合うプラスとマイナスを取り除いた差異の和だとしています。つまり、それは数学的存在なのだと東氏は述べています。

 そして、このルソーの一般意志の概念にフロイトの無意識の概念を加味し、今日の情報技術の進展によって可視化されるようになったデータベースは、大衆の無意識の欲望であるところの一般意志だとします。

 そして先ほど触れたように、東氏は、

「熟議とデータベースが補いあう社会」

こそが理想的な社会だとするのです。

 ルソーの現代的なあてはめとして、本書は大変スリリングで知的刺激に満ちているのですが、当然賛否両論の反応があるのではないかと予想されます。

 もっとも考えられる反論としては、東氏のいうような大衆の欲望のデータベースを政治プロセスに導入することによって、果たして政治が良くなるのか?という疑問でしょう。

 確かに、近年の国際政治におけるテロリズムという要素や、我が国の政治におけるどうしようもない混乱を見れば、理性と理性とがぶつかる熟議の政治が機能不全に陥っていることを痛感せざるを得ません。かつてアレントハーバーマスらが論じ、理想的な政治として捉えられてきた政治は、今の時代においては、混乱をますます助長しているかにすら見えてしまうのです。主義と主義とが真っ正面からぶつかり合えば、いくら熟議を重ねたところで、解決に向かうどころか、かえって全面的な対立につながってしまっているように思えるのです。

 そういう状況の中で、東氏はデータベースを熟議にぶつけることで打開策を講じようとしているわけですが、これはスッと簡単に飲み込める話ではありません。それによって政治がどのように良くなるのかが見えてこないからです。

 思うに、著者は根本的に理性による政治に対して多大な不信感を抱いているように思います。この点は、著者がローティの思想に言及する当たりで次第に明らかになってきます。

 ローティは、従来私的領域で処理されていた動物的で身体的な問題こそが公共性の基盤になるべきだと主張します。別の言い方で言えば、普遍的なことは私的領域で扱われるべきであって、公的領域では普遍的なことは扱うべきではなく、想像力や感情によって人々は公的領域において結びつくべきだとするのです。

 これは、ローティが人間の理性を信用しておらず、感情こそが社会をつくるべきだと考えているからにほかなりません。

 そう考えると、東氏の主張の真意も何となく見えてきます。政治という公的領域において理性をぶつけ合うことに対する懐疑がその根底にあるのが分かります。つまり、政治の場でいくら理性をぶつけ合っても詮無く、それならば、大衆の欲望がふわっと体現されたようなツイッターを数学的に処理したような一般意志2.0を政治の場に導入した方がよっぽどましなのではないか、というのが東氏の主張のような気がします。

 それならば、いっそのことデータベースに政治決定を委ねてしまったらよいのではないか、と思ってしまうのですが、東氏はさすがにそこまでは踏ん切りがつかなかったのか、熟議とデータベースの抗争という提起にとどまっています。

 本書には同意しかねる部分も多々あり、特に、最終章において東氏の描いている来るべき未来像については、全く共感できません。例えば、あと半世紀もすれば、世界の各文化の差異は伝統芸能くらいしかなくなり、どこの住民も同じ本を読み、同じ音楽を聴くなど、文化的に同じような生活を送るようになるのではないかという趣旨の記述がありますが、これはちょっと違うのではないかと思ってしまいます。

 ただ、数々の違和感があるものの、ルソーの一般意志からスタートしてここまで議論を展開させる思考力はさすがという感じもします。

 知的刺激に満ちた書であることは間違いありません。