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國分功一郎「暇と退屈の倫理学−人間らしい生活とは何か?」

暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学

 成熟した文明社会における大きな悩みの種である閑暇について、過去の哲学者たちのテクストを参照しながらこれほど深く考え抜いた著作は最近お目にかかったことがありません。これまで多くの哲学者たちが暇というテーマと向かい合ってきました。バートランド・ラッセルは『幸福論』の中で、共産主義革命が進行中のロシアの若者は創造するべき新世界があるから幸せだと述べ、アドルノとホルクハイマーは、資本主義の中で文化産業が暇を得た人々につけこんでいると論じ、ウィリアム・モリスは、消費社会が提供する消費とは違った贅沢を「民衆の芸術」によって考えます。挙げ句には、テロリストについて、恐ろしくもうらやましいといった言説まで登場するわけですが、著者は、こうした様々なテクストを丹念に読み込み、ハイデッガーの退屈論をベースとして独自の解決策を提示していきます。大変スリリングで、アッと言う間に読み通してしまえる本です。以下、本書の論旨を私なりにまとめてみたいと思います。

 著者はまず、パスカルの議論を取り上げます。パスカルは、人間の不幸の原因を、退屈することにあるとします。つまり部屋にじっとしていられないことが人間の不幸の源泉だというわけです。そして、パスカルは、うさぎ狩りを例に、人間は退屈に耐えられないから気晴らしを求めているのに、自分が追い求めているもののなかに本当の幸福があると思いこんでいると指摘します。そしてパスカルは、神への信仰を解決策として求めるのです。

 ラッセルは、退屈とは事件が起こることを望む気持ちがくじかれたものだとします。つまり、人々は興奮を求めているというわけです。そしてラッセルは、幸福とは熱意をもった生活を送れることだとするわけですが、著者はこのラッセルの結論には重大な欠陥があるとします。それは不幸への憧れを生み出し、倫理的に問題があるからです。

 スヴェンセンは、退屈が人々の悩み事になったのはロマン主義のせいだとします。前近代においては一般に集団的な意味が存在し、それが個人の人生の意味を与えてくれたのに対して、近代以降、こうした意味体系は崩壊し、生の意味が共同体的なものから個人的なものになり、そこで登場するのがロマン主義だというわけです。スヴェンセンは、現代人はロマン主義という病に冒されてありもしない生の意味や生の充実を必死に探し求めており、そのために退屈に襲われるのであり、ロマン主義を捨て去ることが退屈から逃れる唯一の方法だとしますが、著者はこれを消極的な解決として退けます。

 著者は次に、定住と退屈の関係について論じます。もともと遊動生活を行っていた人類は約1万年前に中緯度帯で定住する生活を始めたわけですが、著者は人類の肉体的・心理的・社会的能力や行動様式は、遊動生活に適しているのではないかと考えます。つまり、気候変動等の原因によって人類は長らく行ってきた遊動生活をやむなく放棄し、定住するようになり、それが今では当たり前のようになったというわけです。そして、定住によって人類は退屈を回避する必要に迫られるようになったと著者は考えます。だからこそ、人類は退屈を紛らわせるために高度な工芸技術や政治経済システム、宗教体系を発展させたと言えるわけです。これはなかなか興味深い指摘です。

 その後の人類の歴史において、暇であることが尊敬される時代がありました。それを指摘したのがソースタイン・ヴェブレンの名著『有閑階級の理論』です。ヴェブレンはこの本の中で、暇であることに高い価値が認められていたことを指摘します。暇であることを見せびらかす「顕示的閑暇」という行動様式は有名です。しかしながら、閑暇を見せびらかす様式は19世紀末から20世紀初頭にかけて凋落し、代わりに消費がステイタス・シンボルとして浮かび上がってきます。
 ヴェブレンは「製作者本能」という概念を持ちだし、暇の見せびらかしもこの「製作者本能」から説明しようとするのですが、著者はこの点についてヴェブレンの説明が破綻していると指摘します。そして、文化は浪費としてしか捉えようとしないヴェブレンに対して、アドルノはこれを批判します。ただ著者は、ヴェブレンが「品位あふれる閑暇」というキケロの言葉を持ち出し、有閑階級の伝統を持たない新しい有閑階級たち(余暇の権利を得た労働者など)が暇をもてあましている様を指摘していることはヒントになるとしています。それは、暇のなかにいる人間が必ずしも退屈するわけではないことを教えてくれるからです。

 著者は、「疎外」という現在遠ざけられている概念についても再考を求めます。それは消費社会の退屈と深く結びついているからです。著者は浪費と消費の違いについて論じています。浪費というのはどこかに限界を感じるのに対して、消費には限界がない、というのがその違いです。つまり、消費はけっして満足をもたらすことがないというわけです。なぜなら、消費の対象は物ではなく、物に付与された観念や意味だからです。これはボードリヤールの指摘が有名ですが、現代社会においては、広告は消費者の個性を煽り、決して完成することのない個性を追い求めることで、人は消費の永遠の循環に陥っているわけです。つまり、消費の中では決して「贅沢」ができないわけです。

 こうして様々なテクストを検討してきた後に、本書はようやくハイデッガーの退屈論にたどり着きます。ハイデッガーは3種類の退屈を定義します。第一の退屈は、何かによって退屈させられること、第二の退屈は、何かに際して退屈することです。第一の退屈は、我々が何かと期待しているのに、それが提供されないときに生ずるもので、第二の退屈は、気晴らしをしているはずであるのに退屈してしまうというような大変わかりにくいケースです。つまり、第一のケースは、<暇でありかつ退屈している>というケースであるのに対し、第二のケースは、<暇ではないが退屈している>というケースです。著者は、ハイデッガーがこの第二の退屈を発見したことを大変重要視します。第二の退屈について、ハイデッガーは次のような例を挙げます。すなわち、夕食にどこかに招待され、楽しく談笑し、音楽を聴き、とても素晴らしいパーティーを過ご、どこにも退屈であるようなものは見当たらないにもかかわらず、終わってみると退屈していたことに気付く・・・。そんなシチュエーションです。

 ハイデッガーはさらに、気晴らしが不可能であるような深い退屈の形式、すなわち<なんとなく退屈だ>という第三の退屈を提示します。この第三の退屈の中で、人間は「自由」という可能性を試されます。すなわち、ハイデッガーは退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよというのがハイデッガーの結論だというわけです。

 しかし、著者はこうしたハイデッガーの結論は受け容れられないといいます。

 著者はユクスキュルという理論生物学者の「環世界」という概念をひきつつ、ハイデッガーの結論の問題点を指摘します。この概念は、すべての生物は別々の時間と空間を生きているというものです。つまり、ダニにはダニの世界があり、ミツバチにはミツバチの世界があるというわけです。ハイデッガーはこのユクスキュルを批判し、人間に環世界の概念を適用するのは間違っているとします。ハイデッガーは、人間はこうした単純な動物とは異なる存在だと捉えており、人間だけが自由であり、退屈をすることから、人間に環世界を認めるわけにはいかないと考えているわけです。
 著者は、このハイデッガーの指摘を批判し、人間にも環世界を認めた上で、人間は環世界から別の環世界に容易に移動できる存在だと規定します。つまり、人間はその他の動物に比べて極めて高い環世界間移動能力を持っているというわけです。
 この高い環世界間移動能力こそが自由の現れである一方、こうした自由度を持っているからこそ人間は退屈するのだと著者は指摘します。

 そして著者は、ハイデッガーがいう決断について、これを奴隷状態だとします。つまり、ハイデッガーは決断した後の人間について忘れているというわけです。ここで著者は、第一の退屈と第三の退屈の類似性を指摘します。結局、第三の退屈を経て決断した後の人間は、第一の退屈の中にある人間とそっくりだというわけです。

 こうしてハイデッガーのいう第二の退屈が際立ってきます。つまり、第二の退屈こそ、退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものだというわけです。人間はこの退屈と向き合うために文化や文明を発達させてきたわけです。人間とは第二の退屈を生きながら、ときたま第三の退屈=第一の退屈に逃げてまた戻ってくるという存在です。そして、大事なことは、第三の退屈=第一の退屈に陥らないようにすること、すなわち奴隷にならないようにすることだとします。


 著者の言わんとすることは、永遠に満たされない消費構造の中に置かれている現代人は、物を受け容れて贅沢することができるよう、つまり、物を楽しむことができるようにならなければならないということです。現代社会の消費構造の中では、気晴らしすればするほど退屈が増していくという構造にあるのに対し、人間は楽しむ訓練をして、この満たされない消費構造から脱却する必要があるというのが著者の主張です。環世界間を移動するのではなく、一つの環世界の中にひたっているのが動物だとすれば、それは<動物になること>ということもできます。

 つまり、第二の退屈を享受する途を探ることが、現代社会の退屈を生き抜く秘訣だというわけです。ハイデッガーはなぜ夕食パーティーで退屈してしまったのか、それはハイデッガーが楽しむ訓練をされていなかったからです。


 私も著者の主張に概ね共感します。

 かつてトインビーが指摘したように、成熟した文明の最大の課題は暇をどのように過ごすかにあります。確かに、戦後日本も高度成長の高揚感に浸っていたことによって退屈を紛らわすことができたわけですが、成熟した文明になればなるほど、そうした高揚感は失われていきます。そういう中で退屈とどう向き合うかは、文明社会が生き延びていく上で極めて大きな課題であるにもかかわらず、近年の論壇ではそうしたテーマはすっかり論じられなくなってしまっています。

 かつての貴族階級には閑暇をいかに楽しむかについての知恵がありました。そこには芸術文化などが形成され、閑暇を楽しむ様々なシステムができあがっていたからです。しかし、大衆が余暇を手にするようになって久しいにもかかわらず、いまだに大衆は余暇との向き合い方を見つけたとは言い難いように思います。

 現代社会において、閑暇において決断やスリルを求めることは大変危険であることは著者の指摘するとおりです。著者はコージェヴがアメリカ社会を「歴史の終わり」と位置付けた「壮大な勘違い」を糾弾します。なぜなら、コージェヴの理解は、人間は長らく歴史の目的を背負ってきた「本来の人間」だったのが、もはや「歴史の終わり」を経て「動物」化してしまったとしているのですが、そうした捉え方がテロリストの奨励につながってしまっているからです。閑暇に決断やスリルを求めることは、安易なナショナリズムファシズムに結びつく危険性を持っています。

 私は著者の指摘するように、文化や芸術、教養の中に文明社会の閑暇の出口を見つけることが一つの解決策のように思います。記号上の差異を求め続ける際限ない消費ではなく、限りある物の中に満足感を見出せるような資質を身につけることが、文明社会を豊かに生き抜く秘訣のような気がします。

 本書は久々に重厚な「暇」の哲学を提示してくれました。戦後の日本社会では暇のつぶし方が論壇を挙げて議論されたわけですが、我々は再びこういう議論を立て直していく時期に立っているのではないかと思います。