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大屋雄裕「自由とは何か」

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

 「自由」を考えるということがいかに難しいことかがよく分かる、目から鱗が落ちるような本です。

 例えば、自由を制約すると想定されてきた「国家」を制約すれば我々は自由になれるのか?「リバタリアニズム」は正にこうした発想から、司法・治安維持・国防というサービスのみを提供する「超最小国家」を想定するわけですが、こうした「超最小国家」が自由をもたらすかといえば、決してそうではありません。国家権力が弱ければ、ギルドのような「共同体」が力を持ってくるわけですが、こうした「共同体」内部では自由ですが、それは外部を排除することによって成立しているからです。むしろ、共同体を国家が抑圧することによって開かれた競争が始まったのだ、と大屋氏は指摘しますが、この点は、昨今の新自由主義的発想からは抜け落ちている重要な点だといえるでしょう。

 また、本書では、アイザイア・バーリンが提示した「消極的自由」と「積極的自由」の対比について論じられています。「消極的自由」というのは強制が欠けていることで、「積極的自由」というのは行為を決定できる干渉の根拠についての概念で、バーリンは「積極的自由」の持つ危険性を指摘し、一定の迷いを留保しながらも「消極的自由」の優位を主張しているとのことです。

 つまり、「積極的自由」というのは、例えば、自分の属する共同体の運命を自らの手で決めるといった古代民主政における自由をいうわけですが、そうした決定というのは、共同体の一員として服従しなければならないということが含意されているから、それは「消極的自由」と矛盾することになるからです。

 これに対して、法哲学者の井上達夫教授は、「消極的自由」と「積極的自由」のどちからだけを選ぶことはできないと批判します。

 しかし、バーリンは、「積極的自由」を否定しようとしていたわけではなく、それが暴走する危険性を指摘していたわけです。これに対し、全体主義を問題化したアーレントは「積極的自由」を強調した。どちらも全体主義を問題化したにもかかわらず、バーリンは「消極的自由」を強調し、アーレントは「積極的自由」を強調したという点に、自由をめぐる問題の難しさが現れていると大屋氏は指摘しています。

 こうした点が本書の第1章「規制と自由」において述べられています。第2章の「監視と自由」も、フーコーレッシグの権力論が分かりやすく述べられており、大変面白いのですが、やはり第1章が一番グイと引き込まれます。

 思うに、一時期、我が国においては構造改革論の嵐が吹き荒れましたが、この背後には、新古典派経済学の熱烈な信奉があったことは言うまでもありませんが、他方で、「自由」の概念に対する未熟な理解が背景にあったといえるような気がします。つまり、国家による規制をなくすことが「自由」であって、好ましいものなのだという単純な理解が広まっていたような気がするわけです。

 しかし、本書を読むと、「自由」とはそんなに簡単な議論ではなく、「国家」による規制をなくせば、「共同体」による規制というもっと醜いかもしれないものが出てくるかもしれないわけです。本書でも触れられているように、マイクロソフトのような市場占有率が高い経済主体がその地位を利用して不当な取引条件を強制するような「資本主義的専制」だって起こりうるわけです。

 本書によれば、井上達夫教授は、国家・市場・共同体はそれぞれ単独では暴走する危険性を秘めており、個人の権利や存在を守るためにはそれらが相互に抑制均衡を加えつつ併存する必要があると主張されているようですが、今後、構造改革に疲れた日本社会を建て直していくためには、こうした視点が必要になってくるものと思います。