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ロバート・B・ライシュ「勝者の代償」

勝者の代償―ニューエコノミーの深淵と未来

勝者の代償―ニューエコノミーの深淵と未来

 この本は、アメリカで2000年に出版され、日本では2002年に出版された本です。当時、アメリカではニューエコノミ論ーが叫ばれ、好景気に沸いていたわけですが、この本は、そんな好景気に浮かれた社会に対して警鐘を鳴らすものです。

 この本におけるライシュの問題意識については、訳者である清家篤教授があとがきの中で、次のように要領よくまとめています。

「問題は、個人は消費者でありかつ生産者(たいていは生産者である企業のもとで働く労働者)ということであり、消費者としてより豊かで便利になればなるほど、生産者・労働者としてより不安定になるということなのだ。」(p448)

 90年代に吹き荒れた規制緩和論の中では、しばしば「消費者重視」という言い方がなされていましたが、我々の多くは消費者という立場だけでなく、生産者・労働者という立場を併せ持っているのであって、「消費者重視」という言い方がいかにまやかしであるかは、少し考えれば分かるものです。この本の根底に流れている問題意識は、新たな経済社会の中で、生産者・労働者としての我々が置かれている不安定な状況をきちんと捉えて、それに見合ったバランスのよい社会を作り上げていくべきということです。


 さて、ライシュは、ニューエコノミーを「すばらしい取引の時代」と捉えます。つまり、インターネットや電子商取引などのIT技術の進展等によって、消費者としての我々は、無制限の選択を手にし、より良いものを探して取引相手を変えることも容易になっているわけです。

 しかし、このことは、買い手にとっては選択が広がるので良いことなのですが、売り手はより不安定な地位に置かれることを意味します。売り手は激しい競争に勝ち抜くために、常にコストを削減し、付加価値を高めていかなければなりません。しかも、仮に競争に勝ち抜いたとしても、決してのんびりできるような地点にたどり着くことはなく、果てしなく競争は続いていきます。

 こうした状況においては、才能溢れる「変人」か世の中を見通す「精神分析家」が企業家として重宝されますが、それ以外の人たちは冷淡に扱われ、コスト削減の対象となり、不安定な状況に置かれることになります。つまり、「経済的な安心感」が失われてしまうわけです。当然、会社に対する忠誠心は失われていきます。

 つまりは、雇用の形態が従来のオールド・エコノミーの時代から一変しているわけです。かつての雇用形態は、予測可能な賃金上昇を伴う安定雇用であり、労働強度も限られたものであったわけですが、ニューエコノミーの時代にあっては、そうした安定した仕事を期待できなくなります。常に努力を継続しなければならず、不平等も拡大します。

 こうしたニューエコノミーの影響は、私たちの生活を大きく変えることになります。第1に有給労働の増加です。さらにそれは、我々の生活時間にも浸食してきます。

 そして、人々は、世帯所得を維持するために、より一生懸命に働くことになります。なぜなら、収入が予測できなくなっている状況下で、「人々は日の照っている間に、「干し草」を作っている」(p193)からです。さらに、ライシュは、所得格差の拡大が人々により一生懸命働くことを強要しているとします。これはどういうことかといえば、上層にいる人にとっては、より多く働くことでこれまでよりも多く稼ぐことができるのであるから、より少なく働くという選択はかなりの経済的な損失を伴うことを意味し、結果としてより一生懸命働くことになるということです。中には、「ダウンシフティング」といって労働時間も収入も減らそうという人もいますが、それは少数派です。他方、下層にいる人にとっては、世帯収入を支えるために一生懸命働かなくてはなりません。いずれにしても、より一生懸命に働かなくてはならないわけです。

 家族関係について見ても、ニューエコノミーの中で家族の機能がますます外注化される傾向にあります。コミュニティの性格も変わり、人々はコミュニティから得られる個別的な利益のためにコミュニティを選ぶようになります。それは、「商品としてのコミュニティ」という性格を強くするものであり、「選別メカニズム」がより強く働くことになるわけです。

 ライシュは、こうした事態について、個人の選択を超えたものであり、社会の選択として捉えるべき点を強調しています。そして、ニューエコノミーがもたらす恩恵と社会的コストをよく認識した上で新しい社会のバランスについて議論していくべきだと主張します。

 最後にライシュは次のように述べています。

「市民として、われわれはニューエコノミーをわれわれの必要性に合うように整理する力があり、そうすることによって新興文明の形を決めることができるのである。すべての社会には、そうした選択をする能力、というよりもさまに義務、があるのだ。そうした選択によって市場は組み立てられる。家族やコミュニティもその選択に応じて機能する。個人はその中で生活のバランスを取っていくのである。そのような決定を通して、社会はそれ自体を定義するのである。何らかの選択がなされなければならない。それは避けることのできないものだ。問題はわれわれがこうした最も大切な選択を白日の下に一緒に行うのか、それとも暗闇の中で独りこれに取り組むのかということである。」(p402)

 ライシュは、「ネオ・ラッダイト」のように決してニューエコノミーという方向性に反対しているのではありません。その光と影をしっかりと認識した上で、そのバランスを取るための在り方を社会全体として議論すべきと主張しているのです。この主張には私も賛成です。

 ニューエコノミーという言葉自体はもはや死語のような感も受けますが、ライシュがこの本の中で指摘している問題意識は、まさに今日の日本社会について論じたものであるかのようにぴったりと当てはまります。

 日本でも近年、労働時間の二極化によって、長時間労働を強いられている労働者の増加が深刻な問題となっています。他方で、いくら働いても貧困から抜け出せない「ワーキング・プア」も大きな社会問題となっています。長年豊かさを追求してきた日本社会が行き着いてしまった先が、過剰なまでの労働中心社会であり、不安型社会だったという皮肉な結果が今もたらされているわけです。

 我々はもっとこうした負の事実を真っ正面から捉えるべきだと思います。

 ライシュのいう、オールドエコノミーからニューエコノミーへの流れというのは、相当程度不可逆なものであると思いますが、かといって、とことんこの流れを推し進めるべきか、あるいは、不可逆な流れの中でいかにバランスを取っていくか、いろいろな選択肢があるわけです。そのためには、ニューエコノミーの負の側面を真っ正面から取り上げることがまず必要でしょう。

 数年前に書かれたこの本、日本社会に照らして読むならば、今こそ“旬”だと思います。