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「大日本人」★★★

 早速、映画批評みたいなことから初めてみたいと思います。

 今回は「大日本人」です。

 言わずと知れた、ダウンタウン松本人志の初監督作品です。今年のカンヌ国際映画祭で監督週間部門に正式招待されて大きな話題となりましたね。

 松本演じる「大佐藤大(だいさとうまさる)」は、普段は30代後半の都内の貧相な一軒家に住む長髪の男ですが、「獣」が出現すると強力な電流を体に通すことによって巨大化して「獣」と戦うことで稼ぎを得ています。彼の仕事は先祖代々受け継がれてきたもので、祖父の代には大変羽振りのよい生活を送っていたのが、今では、世間の人々からも疎まれる存在となってしまっています。彼の戦い振りはなぜだか深夜のテレビでも放映されているらしいのですが、視聴率はあまり芳しくなく、胸に企業の広告を付けることによってどうにかやりくりしているような感じです。そんな哀愁漂うヒーローをテレビクルーが密着してその生態を追うというのがこの映画の構成となっています。

 劇場に足を運んでいるのは、「ダウンタウン世代」というべき20代後半から30代前半が中心といった感じに見えました。正直、笑いがどっかんどっかんと次々にやってくる、という映画を期待されている方は、がっかりするかもしれません。劇場でも、小さな笑いがたまにわき起こるといった程度でした。でも、松っちゃんのシュールな笑いがツボにはまる人であれば、楽しむことができると思われる映画です。

 この映画を見ると、これまでテレビを中心として活躍してきた彼のキャリアがあちらこちらで色濃く反映しているのを感じます。松本は、記者会見でも「僕は『テレビの自分』の延長線上かなと思います。」と述べているように、映画をテレビでの活動の延長として捉えているようです。そもそも、この映画の設定がテレビクルーに「大佐藤」が取材されているという設定を取っていることがその現れでもあるのですが、そうした「テレビ」の延長性がこの映画の特徴でもあるし、また、この映画の限界でもあるような印象を受けました。

 特にエンディングの展開は、テレビコントの“落ち”として見れば松本ならではの“シュール”な展開としてそれなりに楽しめるのですが、映画の“落ち”としてはやはり物足りなさを感じてしまいます。これが「映画を壊したい」という松本の意図であったのかもしれないのですが、正直、エンディングにたどり着くまでの映像はそれなりに映画としても楽しめたものの、エンディングのシーンは中途半端なテレビコントを見ているような感じを受けざるを得ませんでした。

 ただ、松本監督の将来作を大いに期待させる要素も数多く見受けられました。伝統をないがしろにする日本人への警鐘や、何でもコマーシャリズムに転化してしまう昨今の社会風潮への批判(特に視聴率を極度に気にするテレビ界への批判的視線)などが、あちらこちらで顔を見せており、それなりのメッセージとして見る側に伝わっていたのではないかと思います。

 また、エンディングのシーンも、見ようによっては、安全保障面を始めとしてアメリカに従属している日本の現状をちくりと批判したものであるようにも見えます。「怪獣」は怪しいものではないとして「怪獣」ではなく「獣」として扱っていた「大佐藤」に対し、エンディングに登場するアメリカの正義の味方は、「怪獣」をこっぱみじんに吹っ飛ばしてしまいますが、この態度の違いも松本監督の反米精神を表現したものであるように思えます。

 こうしたこの映画の「メッセージ性」は、評価できると思います。

 松本監督が「テレビ」と「映画」をきっぱりと割り切り峻別して映画を制作することができるようになれば、松本映画は今後大いに期待することができると思います。

 次回作に大いに期待です。