映画、書評、ジャズなど

新型コロナ禍考

今、新型コロナへの対応で世界中が大混乱に陥っています。平日の昼間なのに閑散とする都市の光景は衝撃的です。SF映画に出てくる最終戦争後の廃墟を目の当たりにするようで、背筋がぞっとする思いがします。街を歩いても、ほとんどの飲食店は閉まっており、たまに開けている飲食店も、どこかうしろめたさと感じながら営業しているような状況です。

我々人類は、これまでに数々の困難を克服してきました。多くの戦争を乗り越え、東日本大震災のような圧倒的な天災にも打ち勝ってきました。しかしながら、今回の新型コロナへの対応は、こうした過去の事象とはかなり違ったものになりそうな気がしています。

今回の新型コロナがこれまでの災害とは明らかに大きく異なる点は、終わりがはっきりしないということです。新型コロナウイルスは、アフリカや東南アジアを含む世界中のあらゆる地域で猛威を振るっていますが、そうだとすれば、季節的な要因で終息することは考えにくく、ウイルスを根絶することはおよそ期待できないことになります。

となれば、新型コロナは、インフルエンザや他の多くの感染症と同様に、この先もずっと人間社会の中に生き続けるでしょう。いずれ有効なワクチンはできるかもしれませんが、それも何年先になるか分かりません。一旦抗体ができれば罹患するリスクがなくなるかどうかもはっきりしません。その強力な感染力を持って、これからもしばしば爆発的な感染が起こることが予想されます。つまり、これから先の人類は、生き残った新型コロナがいつ再び爆発的に広がるかという恐怖と常に隣り合わせで生きていかなければならないということになります。

少なくとも、今言えることは、新型コロナは完全に終息することは見込めず、人類は新型コロナと共存していかなければならず、そして、新型コロナへの対処は、人間社会の在り方を根本的かつ永続的に変えてしまうだろうということです。

新型コロナが飛沫感染のウイルスである以上、おそらく、人間社会が元の社会生活を完全に取り戻すことはないでしょう。人々は、他人が新型コロナウイルスを持っているかもしれないという疑念を常に潜在的に抱きつつ、他人と接することになるでしょう。今までのように、仲間とハグをしたり、気軽に握手したりすることがためらわれるばかりでなく、そもそも会議室に集まることや、飲食店で仲間と飲むことすら、ためらわれるような社会がこれから先ずっと続くように思われます。気軽に旅行を楽しむこともできなくなるでしょう。仕事の出張すら控えなければならないでしょう。人類がこれまで進めてきたグローバル化の試みはあっさりと否定され、再びローカルな世界に向かっていくことになると思われます。

 

【3つの分断】
そして、今我々が直面しつつある最大の課題は、社会の分断かもしれません。それは徐々に顕在化しつつあるように思います。大きく以下の3つの分断が考えられるように思います。

(1)職業間の分断
新型コロナによる自粛要請は、今多くの人々の生活を困難な状況に追い込んでいます。最も打撃を受けているのは、外食産業でしょう。外食産業は、人間社会が文化を形成する場として重要な機能を持っています。レストランや居酒屋に多くの人々が集い、酒を酌み交わしながら団らんすることで、文化が形成されてきたわけです。しかしながら、今や、新型コロナの影響で、人々が集うこと自体が否定されています。これまで文化を形成してきた重要なインフラの存続すら危ぶまれる状況となってしまっているわけです。多くの飲食店は、店舗を借りて営んでいるわけですから、毎月の家賃を支払わなくてはなりません。十分な内部留保がない飲食店にとっては、売り上げが一定期間途絶えれば、即廃業にならざるを得ない飲食店も多いはずです。そして、外食産業は多くの雇用を支えています。飲食業でアルバイトをして学費を稼いでいる学生たちも大勢います。新型コロナによる自粛は、そうした飲食店の従業員たちの生活も崩壊させてしまっています。

困窮に追い込まれているのは外食産業だけではありません。人の密集が必然的に伴うエンターテイメント業界も然りです。ライブハウスで盛り上がることも、大ホールでコンサートを鑑賞することも、映画館や劇場に集まることさえも、今後はためらわれるかもしれません。

こうした中、自粛要請に従わない飲食店に対しては、“自粛警察”と呼ばれるような誹謗・中傷が行われるようになっています。自粛はあくまで要請に基づくものですから、当然、従う人と従わない人が出てきます。でも、それは自粛であることの必然ですし、何よりも、多くの飲食店にとっては、自粛することが死をもたらすわけですから、自粛に従わないことを批判すればよいということにはなりません。こうして、社会にいがみ合いが生まれるリスクが高まっています。

これは、同じ業種の中での分断にもつながる面があると同時に、異なる業種間の分断という面があります。つまり、今自粛の中で深刻な打撃を一心に受けているのが、外食産業を始めとするサービス産業です。当然、それ以外の業種との間の不公平感を感じないわけがありません。ただでさえ、外食産業は零細経営が多いわけですから、こういう状況が続けば、いずれ相当な不満がたまってくるでしょう。


(2)世代間の分断
こうした社会の分断は、深刻な世代間の闘争にもつながる要素があります。つまり、高齢者は新型コロナに感染すれば重篤化するリスクが高いのに対し、多くの若者たちは、新型コロナに感染しても重篤化する確率は低いわけですから、何のために自粛をしているかといえば、高齢者を守るためという面もあるわけです。

今は、多くの若者たちもそれを理解しながらも自粛要請に従っています。しかし、こうした状況が長期化すれば、やがて不満が溜まっていくことは容易に想像がつきます。自粛によって、多くの若者たちが、娯楽の場を失っています。飲食店や友人宅に集って盛り上がることもできず、エンターテイメントも奪われ、スポーツ活動もできず、学校にすら登校できず、友達とも会えない状況が続いているわけです。終わりがはっきりしているのであればまだ我慢のしようがありますが、いずれ、そうした我慢にも限界が来るでしょう。そうなると、不満の矛先は、高齢者に向かうということにもなりかねません。

(3)地域間の分断
また、新型コロナは地域間の分断も生みかねません。今、地方では、大都市圏から入ってくる人たちが新型コロナを持ち込むのではないかと強い警戒感を抱いています。玄関口の駅や空港で体温測定をする光景も見られます。県境で検温しようとした県が批判されて撤回するという事態も見られました。同じ国の人々であるにもかかわらず、こうした状況が生まれることは、日本が近代国家になってから初めての経験かもしれません。こうした疑心暗鬼は、社会に深刻な分断を生みかねません。

緊急事態宣言が解除されたとしても、こうした互いの疑心暗鬼はなかなか解消されないでしょう。地域で再びコロナ感染が広がれば、誰が持ち込んだかという犯人捜しが益々激しくなることは目に見えています。

このコロナ禍は、自由な移動に慣れた人々にとっては、深刻な試練です。自由な移動こそが自由な人間の最大の象徴です。それは、我々が当たり前のように享受してきた権利です。少なくとも、同じ国の中の移動は、何一つ制約なしにできたわけですが、そうした自由が今失われつつあるわけです。しかも、自粛という名の下に。現代人がいつまでこうした不自由さを甘受できるのか。おそらく、そう長くはないでしょう。

 

以上のような分断は、緊急事態宣言が長期化し、こうした自粛要請が続けば続くほど、深刻なものとなっていくでしょう。

 

【政府の対応は十分か?】

今、政府は関係省庁一丸となって、新型コロナへの対応に当たっています。地方政府も同様でしょう。多くの公務員が昼夜を問わず、休日返上で対応に当たっていることは事実です。かつては、多くの志の高い優秀な学生が国家公務員を志望し、基本的には途中で辞めること少なく、国家公務員として退職まで職を全うするという形態が一般的でしたが、今は、多くの優秀な若者が次々と高給な外資系企業に転職していきます。そういう状況であるにもかかわらず、こうした困難な状況の中で、多くの公務員が職を投げ出すことなく、身を削って新型コロナ対応に当たっているということは、大変心強いことであり、こうしたシステムを平時からきちんと構築しておかなければ、有事の際に的確に対応できないということを改めて実感します。

ただ、今回の政府の対応を見ていると、情報発信の下手さはやはり指摘せざるを得ません。特に、官邸の情報発信には大いに問題があります。側近の進言によるとされる試みが悉く不評を買っていることは、真摯に受け止めなければなりません。

一番心配なのは、有事におけるオール政府による対応の仕組みが機能していないのではないかという疑問です。こういう有事の際の対応は、内閣官房が中心となって関係省庁横断的な施策を取りまとめることが想定され、政府の組織は作られています。通常であれば、内閣官房にできた対策部署が中心になるわけです。ところが、今の政府の対応は、毎日のように、総理の下に関係省庁の幹部が集まり打ち合わせをしているという状況であり、その場を総理秘書官が仕切るという構図です。いきなり総理の面前で打ち合わせをやるわけですから、事前にそれを仕切るという仕組みが機能しておらず、とにかく、毎日行き当たりばったりで総理の前で関係省庁が説明をするというやり方です。

本来、こうした施策を取りまとめるのは、内閣官房長官の役割であることは言うまでもありません。官房長官の下に副長官がおり、その下に副長官補がいて、関係省庁に睨みをきかせながら、困難な施策を取りまとめるというのが、有事における本来のやり方であり、そういう前提で組織が構築されてきたわけです。

にもかかわらず、今回、そうした仕組みがすっ飛ばされて、いきなり総理の面前で打ち合わせが行われ、権力を持った総理秘書官が仕切るという、本来想定されていないやり方が行われているわけです。そこでどういった議論が繰り広げられているかも、議事録も残りません。

こうしたやり方によって、機動的な決定が可能になれば、よい方向に回ることももちろんあり得るのですが、今回の対応を見るにつけ、むしろマイナスの面が出てしまっているように思います。総理側近による稚拙な施策PRがその典型です。

私は、むしろ、この対応に当たっては、もっと官房長官に前面に出てきてもらって、関係省庁に睨みをきかせながら、政府全体のあらゆる政策リソースを総投入するやり方にシフトしていくべきではないかと思います。そうなれば、思い付きのようなちぐはぐは施策をだいぶ減っていくのではないかと思います。

 

【緊急事態宣言解除後の社会ビジョン】

今、世間では、いつ緊急事態宣言が解除されるのかが大きな関心事となっています。しかし、重要なのは、緊急事態宣言解除後の社会がどうなるかです。新規感染者数が何人以下になれば解除とか、接触8割減が達成されたら解除、といったような議論がいかにナンセンスかは、少し考えれば分かります。それが達成されて、人々が今まで通りの生活に戻った途端に、再び感染が拡大するリスクがあることは目に見えています。海外から来日する人々が存在する限り、また変異したウイルスが蔓延するおそれもあります。

そう考えると、緊急事態宣言が解除されれば元通りの生活が戻ってくるというわけではないことは明らかであり、そのことは誰しもが薄々感じているのではないかと思います。

緊急事態宣言は、おそらくGW明けも継続されるでしょう。報道ベースでは、1か月延長とも言われています。これまで人々は、5月6日までということで耐え忍んできました。専門家チームが指摘する接触8割減を実現するため、サービス業を中心として、身を切る覚悟で協力してきたわけです。それがある程度功を奏してきたにもかかわらず、政府が1か月延長という判断をすれば、おそらく、多くの国民は、自粛への協力する意欲を失うことになるでしょう。サービス業の方々は、十分な補償もない中、命がけで自粛へ協力しているのですから、政府は、もし緊急事態宣言を延長するのであれば、どういう状況が訪れれば緊急事態宣言を解除するのかについての明確な基準を説明することが必要です。そうした説明がないままに1か月もの延長が決まれば、生活に困窮した人々による暴動が起こっても不思議ではありません。そうした先の見通しを示すことが政府の役割であるにもかかわらず、それが十分できているとはとても思えません。

 

【2つの方向性 ~「監視社会」か?「非接触社会の構築」か?~】
コロナがわずかでも存在し続ける限り、いつ再び爆発的に感染が拡大するかは分かりません。そうした脅威がある以上、人々はこれまでと全く同様に、自由に集まり、自由に移動するというわけにはいかないでしょう。コロナとの共存というのはそういうことです。

私は、緊急事態宣言の終了後の社会の姿として、2つの方向性が考えられるのではないかと思います。

(1)「監視社会」

その一つは「監視社会」の進展でしょう。要するに、しかるべき監視機関が常時人々の健康をチェックし、移動を事細かく制限するやり方です。このやり方は、既に中国や韓国で試みられつつあります。

中国の北京では、「北京健康宝」というパスポートのような仕組みの構築が始まっているようです。市民は毎日、体温や移動歴を、インターネットを通じて当局に報告し、個人の健康状況と居住地域のリスク区分を考慮して、その人物の移動の可否を判断するという仕組みのようです。このデータは、北京との他の都市との間の往来の判断に用いられるだけでなく、オフィスビルやショッピングモールの出入り可否の判断にも用いられると聞きます。

つまり、市民の健康状態、移動歴が事細かく当局によって把握され、管理されることで、人々の安全・安心が守られるというわけです。

これは、ある意味で、当局の指示に従って動けばよいので、実効的な面はありますが、反面、これまで人々が勝ち取って来た様々な自由を放棄するという面もあります。

西欧諸国では、個人情報保護に対する意識が過度に高い面があります。だから、様々なビッグデータの使い道も限られてしまい、データ解析の技術の進展に対する大きな障壁となっています。一方、中国のように個人情報保護に対する意識が薄い国においては、政府や企業は自由にビッグデータをAIによって解析できるので、その技術は格段に進歩します。情報利用分野で圧倒的に中国が先に行っているのは当然です。

新型コロナ後の社会においては、日本でももう少し、個人情報保護に対する意識を緩めてもよいのではないかという気がします。かつては、各家庭に電話帳が配布されるなど、誰でも他人の住所や電話番号を知り得る時代がありました。そうしたやり方はもちろん現在では通用しないことは当然ですが、それにしても、現在の個人情報保護意識は過剰だと思いますので、日本でもそれをもう少し見直すきっかけになってもよいのではないかと思います。

(参考)中国の対応については、以下のサイトが参考になります。

市民の外出時の新習慣、「北京健康宝」というアプリ【コロナと闘う世界の都市から】| Topics | Pen Online


(2)「非接触社会の構築」

緊急事態宣言後の人々の行動を自発性に委ねるにしても、その行動様式はこれまでと大きく変えていかなければならないでしょう。とにかく、接触の機会を減らすようなコミュニティの在り方を模索していく必要があるでしょう。

一番変えていく必要があるのは、働き方の面でしょう。これまでのように、毎日わざわざ通勤電車に乗ってオフィスに行って、顔を突き合わせて会議や打ち合わせをするというやり方は、かなり変わっていくように思います。zoomやSkypeを使えば、案外気軽に会議ができるということに、多くの人々が気付いたという面は大きいと思います。飲み会ですらzoomでできてしまうことが分かってしまったわけです。

こうして、仕事のやり方は、圧倒的にリアルからバーチャルへ急速に転換していくことになるでしょう。これは、負の面というよりも、むしろメリットとして捉えるべきだと思います。オフィスに通わなくてよくなれば、大都市に生活する必要もなくなり、Wifi環境さえ整っていれば、田舎でも仕事ができることになります。職住近接どころか、職住一致という形態が一般的になる可能性もあります。オフィスの賃料も安くなるでしょう。組織の在り方も、縦方向の関係がより水平的な関係に変化していくことで、柔軟かつ機動的な意思決定が可能になっていく場合もあると思います。仕事で出張することも、かなり減っていくでしょう。特に、海外出張の機会は大きく減少することが予想されます。海外のクライアント等との打ち合わせは、基本的にzoomなりSkypeで行われることになると思われます。

こうした非接触な方向性は、仕事だけでなく、地域コミュニティにおいてもそうなると思われます。つまり、これまでのような距離的な近さに基づくコミュニティは、基本的に崩壊していくことになるでしょう。学校の授業もオンラインでできてしまうので、学校に毎日通う必要性は薄れるでしょう。

 

もちろん、「監視社会」か「非接触社会の構築」かのどちらか一つということではなく、むしろ、両方の良い面を巧みに取り入れていくというのが、新型コロナ後の社会の在り方ではないかと思います。「監視社会」というと、かつてフーコーが論じたような暗いイメージが醸し出されますが、ある程度の割り切りさえできれば、利便性も大きいはずです。むしろ、個人情報が当局によって悪用されないようにきちんと見張ることが重要であるように思います。

また、この際、これまでなかなか払拭できなかった過去のルールや習慣(例えば、印鑑文化、職場の不要な飲み会、大都市圏への集住、過度な近所付き合い、終身雇用制、過度な個人情報保護、等々)を変えていくというポジティブな発想で我々は新型コロナ後の社会の在り方を構想していくべきだと思います。

我々は、そろそろ、新型コロナ後の社会を構想し始めるべきだと思います。これは、もちろん、政府の責任でもあるわけですが、それだけじゃありません。本来であれば、論壇で、文明論も含めた大局的な観点からこうした議論が繰り広げられるべきですが、今日、日本の論壇は壊滅的状況です。かろうじて、SNSの議論の場が残っている程度です。

 

これ以上、緊急事態宣言を長引かせれば、益々不要な社会の分断が進んでいってしまいます。政府は、早く、新型コロナ後の社会ビジョンを示し、今のような過度な自粛を一刻も早く緩和してく道筋を示し、人々に明るい展望を示していくことが必要だと思います。

 

人類は、これまでも、多くのウイルスと共存してきました。時には、戦争による死者を大幅に超えて、感染症による死者がもららされることもありました。文明が感染症によってあっという間に滅びることもありました。人類は農耕生活を選択し、森を伐採して定住して農業を営んできましたが、その代償として、未知のウイルスとも遭遇し、その返り討ちを受けてきたわけです。また、人間の体内にはピロリ菌を始めとする多くのウイルスが住み着いているわけです。人間はそうしたウイルスと戦い、時に免疫で打ち勝つ反面、共存もしてきたわけです。

新型コロナウイルスだけが、人類が立ち向かえないウイルスであるわけはなく、いずれ、人類と新型コロナウイルスとの共存の在り方が見えてくるのではないかと思います。

「感染列島」★★★★☆

 

感染列島 スタンダード・エディション [DVD]

感染列島 スタンダード・エディション [DVD]

  • 発売日: 2009/07/24
  • メディア: DVD
 

2009年に公開された日本映画です。アマゾンプライムで鑑賞したのですが、おそらく、公開当時に観たとしても、それほど実感がわかず、リアリティに欠けるように感じてしまったかもしれませんが、現下の新型コロナの蔓延を踏まえて見ると、とてもリアリティが感じられる作品で、よくできた作品だと思います。

 

時は2011年。東京都のいずみ野市立病院に勤務する松岡(妻夫木聡)は、原因不明の男性患者を診察するのだが、その患者は急速に容体が悪化して死亡する。その妻も体調を崩していたが、間もなく回復する。

そのうち、病院全体を原因不明の病気が襲い、院内関係者は吐血して倒れていく。やがて病気は全国に拡大し、医療はパンクしてパニック状態となる。

そんないずみ野市立病院における対応の前線にWHOから送り込まれてきた小林栄子(檀れい)は、松岡の元恋人だった。小林と松岡は、正体不明の病気を突き止めようとする。小林は、近づいてきた若手のウイルス研究者にイチかバチかで違法に検体を渡す。

そして、最初に松岡が診察して死亡した男性患者の義父が最近途上国から一時帰国し、体調が悪そうであったことを知る。松岡は知り合いの研究者とともに現地に飛び、蝙蝠が感染源であることを突き止めた。

しかしながら、ウイルスは判明したものの、ワクチンの開発には時間がかかる。そんな中、小林自身がウイルスに感染してしまう。小林は、病床から、回復した元患者の血清の投与が効くかもしれないことを松岡に連絡する。そのやり方で、若い女の子が一命をとりとめた。松岡は急いで血清を持って小林のもとに向かうが、間に合わなかった。

やがて、ワクチンの開発によって、人々は平穏な生活を取り戻す。松岡は田舎の小さな診療所で勤務していた。。。

 

 

この作品は、この新型コロナが蔓延する前のレビューを見ると、それほど評価が高くなかったようですが、最近のレビューは高評価が目立っています。今回の事態が起こる前は、日本人から見て、こうしたパンデミック状態が想像つかなかったのでしょう。しかし、冒頭にも触れたように、現時点で見ると、あたかも予言が当たったかと思われると思ってしまいます。

蝙蝠が起源の未知のウイルスが海外から持ち込まれ蔓延したこと、危機的な医療崩壊と医療現場のパニック状況、人々の疑心暗鬼、政府やWHOの混乱、等々、基本的な部分は、実際に起こっていることと合致します。

 

この作品は、最後、平穏な日常が取り戻されますが、今回の新型コロナの場合、果たしてそうした結末になるのか。現時点では断言できないところが苦しいところです。。。

「砂の器」★★★★★

 

<あの頃映画> 砂の器 デジタルリマスター版 [DVD]
 

松本清張原作で1974年に野村芳太郎監督の作品で、脚本を橋本忍山田洋次が担当しています。まだ根強い出自に関わる偏見が日本社会で残る中で起こった悲劇ともいうべき殺人事件を鮮やかに描いており、犯人が壮大なオーケストラの奏でる場面と幼い犯人が父親と放浪する生い立ちの場面のコントラストが、この作品を日本映画史上に残る傑作としているように思います。

 

国鉄蒲田駅の操車場において死体が発見される。身元の手掛かりは、本人とその知り合いが立ち寄ったバーのホステスが聞いたズーズー弁と「カメダ」という言葉のみであった。

事件を担当する今西刑事(丹波哲郎)と若手刑事の吉村刑事(森田健作)は、東北の亀田という地名の場所を訪れるが、何も手掛かりは得られなかった。

しかし、吉村は、バーのホステスが中央線の夜行列車から白い紙吹雪をまき散らしていたことを知り、犯行時の衣服を隠滅したのではないかと推測する。そのバーのホステスは間もなく失踪する。

一方、被害者の息子が突如現れる。被害者は島根県でで刑事をした三木謙一という人物だった。息子によれば、三木は伊勢参りに向かったものの、東京に行く予定はなかったとのこと。

今西は、ズーズー弁が出雲地方にもあり、そこに「亀嵩」という地名があり、かつて三木が亀嵩の駐在であったことを突き止める。

今西は急遽、亀嵩に飛ぶ。聞き込みを続けると、三木は正義感溢れる人物であり、人に恨みを買うようなところは全く見当たらなかった。

そんな中、ホステスの高木理恵子が流産で死亡する。その家に訪れていたのが、音楽家の和気英良であった。和気はこれからを期待される若手音楽家ホープであり、有名政治家の娘と婚約していたが、高木理恵子はその情婦だったのだ。

 やがて、亀嵩の駐在時代、子供のなかった三木が、放浪していた親子の子供を引き取って育てようとしていたことが判明する。親子の出自も判明する。もともと石川県の山村で生活していたのであるが、父親がハンセン病にかかり、母親が去り、父子だけが村を追われるようにして放浪の旅に出て、行き着いたのが亀嵩だった。そこで父子の面倒を見たのが三木だったが、父親は療養所に入ることになり、残された子を引き取ることにした。しかし、間もなく、子供は失踪してしまう。その子供こそが、その後音楽家として大成した和気であった。

三木は、伊勢参り行った際に立ち寄った映画館で、行方不明となった息子が音楽家の和気であることを知り、急遽上京して面会したのだった。

こうして、和気に逮捕状が出される。警察の捜査会議で今西がこうした経緯を報告する。ちょうどその頃、和気は「宿命」と題する一大交響曲の初演を熱演していた。。。

 

この作品の見どころは、最後、和気が交響曲を演奏するのと同時並行で、今西が捜査会議で報告するシーンでしょう。今西は、和気の生い立ちを淡々と報告しますが、和気が父親の病気のせいで差別を受け、寒い中を放浪しなければならず、いじめを受けるなどして、いかにつらい思いをしてきたかが、映像とともに報告されます。それと同時並行で、成功者としての和気の堂々たる演奏が進んでいきます。このコントラストによって、これだけ才能ある人が出自や身内の病気という理由だけで差別を受けなければならないという当時の日本社会の理不尽さが如実に浮かび上がってきます。

 

Wikiによれば、この作品を作るに当たっては、集客が困難といった理由で反対もあり、なかなか順調には進まなかったようです。橋本忍も当初は内容がつまらないと感じたようで、黒澤明も、シナリオを読んで一蹴したそうです。

しかし、結果的には大ヒットにつながり、原作者の松本清張も小説では絶対表現できないとして高く評価したというのが、興味深い点です。

 

GW初日に大変いい作品を鑑賞できました。

「21世紀の資本」★★★☆

21shihonn.com

少し前にベストセラーになったトマ・ピケティの『21世紀の資本』を映画で分かりやすく映像化した作品です。

 

かつて欧州では貴族が土地などの財産を多く所有し、それが相続で引き継がれて、裕福な暮らしをしていた。それが戦争で階層が崩壊し、貧富の格差が崩れた。その後、中流階級が登場してきたが、やがて、様々な規制緩和が進められ、再び富裕層が生まれ、格差が生じるようになる。そして、そうした富裕層の財産を、今その子孫が相続しようとしている。。。

 

そうした歴史を、様々な映画の映像を盛りだくさんい用いることで、その当時の雰囲気の雰囲気を伝えています。

 

ピケティは、こうした今日の状況を、有名な不等式、すなわち、資本収益率>経済成長率によって説明します。

 

そして、映画の中でも強調されているのは、タックス・ヘイブンの問題です。富裕層は巧みに利益を移し替えて、税金を払っていない、だから、その地域の売り上げに応じて利益を割り当てて税を徴収することを、ピケティは提案します。

 

あの分厚い本を短時間の映像でまとめたわけですから、本を読んだのと同じ効果とは言い難いですが、本を読まなくても、大体内容を把握するためには、ふさわしい作品だと思います。

「男と女 人生最良の日々」★★★★★

otokotoonna.jp

1966年公開の『男と女』のオリジナルのスタッフとキャストによる続編映画です。オリジナルの作品を観ていなくても全然楽しめますし、とにかく人生の晩年とは何かを深く考えさせてくれる素晴らしい作品です。

 

スタントマンの夫を亡くしたアンヌは、レーサーのジャン・ルイと、子供が同じ寄宿舎に通っていた縁で知り合い、激しい恋に落ちた。それから何十年も時が経過し、ジャン・ルイは施設に入り晩年を過ごしている。

 

ジャン・ルイの息子アントワーヌは、父親が施設の同居者らと馴染めず、いつもアンヌの話ばかりしていることから、医師の勧めもあって、アンヌのもとを訪ね、ジャン・ルイに会ってくれないかと頼む。

 

アンヌはジャン・ルイに会いに行く。ジャン・ルイはアンヌだと気づかないが、アンヌとの過去の激しい恋愛を振り返り、饒舌に話し出す。

 

アンヌは、ジャン・ルイを車で思い出の地ノルマンディーまで連れ出す。

 

ジャン・ルイは、かつてのアンヌと目の前にいるアンヌをかわるがわる夢見て、幸せな思いに浸っているのだった。。。

 


あれから53年…『男と女 人生最良の日々』予告編

 

人生の晩年の豊かさや希望をこんな穏やかに力強く描いた作品は、見たことがありません。

 

クロード・ルルーシュ監督は、インタビューで以下のような発言をされています。

「私は、人生の晩年は素晴らしいものであるべきだと考えています。現代社会は高齢者の扱いが悪すぎます。人生の終わりには、花火が打ちあがらなければなりません。」

https://www.asahi.com/articles/DA3S14330985.html

 

晩年の主人公が、過去の淡い恋愛の記憶に夢うつつで浸っている姿は、正に豊かな晩年の象徴と言えるでしょう。

 

それにしても、アンヌを演じるアヌーク・エーメの美しさに惚れ惚れします。オリジナル作品中のエーメは、とてつもなく美しいとしか言いようがありません。

今では87歳になるわけですが、とても色気たっぷりで素敵な女性です。

 

ジャン・ルイ演じるジャン=ルイ トランティニャンも、記憶力が衰えながらも周囲に冗談を飛ばす魅力的な老人を演じています。

 

この作品を観ると、人生の晩年がいかに大事な時間であるかを再認識しますし、人生でどんな破天荒な時間があっても、晩年の温かさな時間によってすべて浄化されてしまうことが分かります。

 

誤解を恐れずに言えば、人生とは豊かな晩年を過ごすためにある、と言っても過言でないような気がしました。

 

パリの市中を赤信号を無視して疾走する映像はとても美しく、主題歌も美しく、晩年を包む時間も美しく、あらゆる面で美しさを追求した作品で、これぞ映画というべき素晴らしい作品でした。

「仮面/ペルソナ」★★★☆

 

仮面/ペルソナ [DVD]

仮面/ペルソナ [DVD]

 

 イングマール・ベルイマン監督の作品です。

冒頭からいきなり前衛的な空気感が前面に押し出され、ラストまでもやもや感が拭い去れないような、難解な作品です。

 

舞台女優のエリザベートは、あるとき突然舞台上で口をつぐんでしまい、それ以降、言葉を発しなくなってしまう。その看護に当たったののが、看護師のアルマだった。

2人は、担当医の提案で、その担当医の所有する別荘で2人で生活することに。

別荘では、アルマが一方的にしゃべり続けるが、エリザベートは相変わらず言葉を発しない。

アルマは、過去に自分が見知らぬ男の子と乱交しやことや、堕胎したことなどを、赤裸々に語りだす。

しかし、そんな打ち明け話をエリザベートが冷静に担当医に手紙で報告していたことで、アルマはエリザベートに憤るのだが、エリザベートに嫌われたくないとの思いから、再び関係を修復させる。

 

そこに、エリザベートの夫と息子が訪れる。夫はアルマをエリザベートと勘違いして話し続ける。

 

そして、アルマはエリザベートに、エリザベートの過去について、あたかも自分のことのように話し出す。2人の顔は半分ずつ融合する。

 

アルマは荷物を片づけ別荘を後にする。。。

 

 

エリザベートの夫が、アルマをエリザベートと勘違いする(しかも、エリザベートがすぐそばに立っているのに)辺りで、エリザベートとアルマは同一人物の裏表として描かれようとしていることに気づきます。

 

ただ、なぜそうしたプロットが必要だったのか、監督の意図は最後まではっきりしないままで物語は終了します。

 

そうした難解さが故に、この作品の哲学的な分析の余地が生まれているという見方もできるでしょう。

 

終始重苦しい空気が漂う感覚は、ある意味ベルイマン監督らしい作品でした。

 

 

 

「ジョジョ・ラビット」★★★★


第二次大戦のドイツを舞台にした不思議なファンタジー作品です。

 

少年ジョジョは、ヒトラーの親衛隊に入隊するが、ウサギを殺すことができず逃げ出してしまい、「ジョジョ・ラビット」というあだ名を付けられる。ジョジョのそばには、いつも空想のヒトラーがいて、ジョジョの精神的な支柱となっている。

 

ジョジョの母親は、密かにユダヤ人の支援をしていた。ある日、ジョジョは、家の部屋の隠し扉の奥に、ユダヤ人の少女エルサがかくまわれているを見つける。ジョジョはエルサからユダヤ人について教えを請う。やがて、ジョジョは年上のエルサに恋心を抱くようになる。

 

ジョジョは、広場で処刑された母親を見つける。戦火は激しくなっていく。ジョジョは、銃弾の中を逃げまどい、かつての上官に窮地を救ってもらい、何とか命拾いする。

 

やがて、戦争はドイツの敗戦で終結する。ジョジョはエルサに、ドイツが勝ったと嘘をつく。エルサは晴れて家の外に出て、そしてドイツの敗戦を知る。ジョジョは、エルサに告白し、2人は見つめ合って踊りだす。。。

 


タイカ・ワイティティ監督がヒトラーに!映画『ジョジョ・ラビット』日本版予告編

 

戦争を題材として扱いながらも、全体を通じたほんわか感があり、しかも、随所にシリアスな内容が盛り込まれているという、何とも不思議な空気感を醸し出しています。

こうした現実とかけ離れた世界観を作り出せるのは、映画の持つ最大の魅力の一つだと思います。

 

戦時中は、ごく普通の少年少女が当たり前のように国家によって啓蒙され、戦争に巻き込まれていってしまうことが、うまく描かれていました。

 

主人公の少年の健気な嫌疑がとても好感が持てます。

 

笑いと涙の両面で楽しめる作品でした。