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レイモンド・チャンドラー「ロング・グッドバイ」

 

 村上春樹氏の翻訳を読みました。村上氏にとって、この本は、数々のチャンドラー作品の中でも、とりわけ思い入れがある作品のようです。主人公マーロウがクールに事件に巻き込まれていくのが魅力的な作品です。

 
マーロウは酒場で偶然テリー・レノックスという男に出会った。レノックスの妻は大富豪の娘シルヴィアだった。あるとき、レノックスがマーロウの家にやってきて、空港まで送るように頼む。鬼気迫る中、マーロウはレノックスを空港まで送るが、マーロウは、レノックスの逃亡を手助けしたとのことで警察に捕らえられる。レノックスは妻シルヴィアを惨殺した嫌疑をかけられていたのだった。レノックスはメキシコで死亡したとの情報が入ってくる。マーロウはすぐに釈放されるが、誰かの圧力があったことは明白だった。そして、マーロウは、レノックスがシルヴィアを殺害したとは思えなかった。
 
その後、マーロウのもとに、ウェイドという作家の妻アイリーンと出版社の男がやって来る。ウェイドを連れ戻してほしいという依頼だった。マーロウは医師のもとにいたウェイドを見つけて連れ戻すことに成功する。するとアイリーンは、マーロウに対して、自宅に泊まり込んでウェイドを監視してほしいと言う。マーロウは断るが、アイリーンには何か隠された事情がありそうだった。ウェイドはシルヴィアと不倫関係にあったことも疑われ、そのことと、アイリーンがマーロウに依頼してきたことの関係もありそうだった。
 
そんな中、ウェイドが自宅で殺害される。マーロウはレノックスの過去を調べていくうちに、レノックスがかつて別名であったことを突き止める。そして、ウェイドの妻アイリーンがかつてレノックスと結ばれていたことを知る。レノックスは戦争で大怪我を負ったが、その後戦地から戻っていた。そして、大富豪の娘シルヴィアと結ばれていた。しかも、シルヴィアは、アイリーンの夫ウェイドと不倫関係にあった。こうした背景から、アイリーンがシルヴィアを惨殺し、その後ウェイドをも殺害したのだった。。。
 
 
ラストに、マーロウの目の前に別人と化したレノックス本人が現れますが、マーロウは至って冷静に対応する辺りがとてもクールです。
 
本書の解説を村上春樹氏が書かれていますが、村上氏はこの本の魅力を「文章のうまさ」だと指摘しています。それは文章の雄弁さです。では、その雄弁さをもってチャンドラーが描こうとしているものは何か?それについて、村上氏は以下のとおり述べています。
 
「それはひとことで言うなら、語り手フィリップ・マーロウの目によって切り取られていく世界の光景である。(中略)世界はフィリップ・マーロウの視点によって、その一片一片を切り取られていく。様々な光景が現れ、様々な人物が登場し、様々な出来事が持ち上がる。マーロウはそのような事象の海を、ほとんど表情を変えることもなく、淡々と通り過ぎていく。我々は本のページを繰りながら、マーロウという一対の目を通して世界の展開ぶりを眺める。そして多くの場合、彼の視点に進んで同化していく。その視点は、いくぶんのエキセントリシティーと過剰さと誇張と矛盾を含んではいるものの、不思議なほど強い説得力を持つものであるからだ。」
 
つまり、マーロウという登場人物の目線を通して描かれた世界観こそが、本書の魅力だということなのだと思います。
 
また、村上氏は、この作品を際立たせている要素として、テリー・レノックスの存在を挙げています。そして、本書におけるテリー・レノックスという存在は、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』におけるジェイ・ギャツビーという存在に、そして本書におけるマーロウは、『グレート・ギャツビー』の語り手ニック・キャラウェイに相当するとして、本書と『グレート・ギャツビー』の共通点を指摘されています。
 
「ギャツビーもレノックスも、どちらもすでに生命をなくした美しい純粋な夢を(それらの死は結果的に、大きな血なまぐさい戦争によってもたらされたものだ)自らの中に抱え込んでいる。彼らの人生はその重い喪失感によって支配され、本来の流れを大きく変えられてしまっている。そして結局は女の身代わりとなって死んでいくことになる。あるいは疑似的な死を迎えることになる。」
 
両作品の共通点についての指摘はなるほどという気がします。私自身の言葉で言い換えれば、独特な視点を有する超越した語り手の存在と、はかなく魅力的な登場人物の存在という要素が、この両作品の魅力を高めているという気がします。
 
チャンドラーという作家、そして翻訳家としての村上春樹氏への期待を裏切らない作品です。