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カズオ・イシグロ「忘れられた巨人」

忘れられた巨人

忘れられた巨人

 前作「わたしを離さないで」から10年ぶりに著者が発表した長編小説です。ファンタジー要素がたっぷりで、著者のメッセージも必ずしも分かりやすいとは言えないこともあり、いかにも賛否が分かれそうな作品です。

 記憶を忘れた老夫婦が、息子を訪ねて旅に出る。息子がどこにいるか、どうやって離れたかも記憶にない。旅の途中で、記憶がない原因が奇妙な霧のせいで、クエリグという雌竜を退治することで記憶が取り戻せるということを知る。

 老夫婦は、途中、騎士と戦士、サクソン人の少年らと出会い、共に行動しつつ、クエリグのもとへ向かうことに。無事にクエルグを退治すると、様々な記憶が甦ってくる。そして、サクソン人とブリトン人との忘れられた怨嗟も甦ってくる。息子が出て行った原因や、息子が既に亡くなっていることについても、記憶が甦ってきた。。。


 この作品は様々な読み方が可能のように思います。あとがきによれば、著者自身は「本質的にはラブストーリー」と述べているようですが、私は、この作品のテーマは“歴史の忘却”にあるのではないかというふうに捉えました。

 つまり、未来に向かって平和を構築していくためには、歴史の忘却が不可欠であり、記憶を甦らせることで、かえって平和の構築が阻まれることになることもあるというのが、この作品のメッセージなのではないかということです。

 この作品でも、ブリトン人とサクソン人との平和的共存の状況が、歴史の忘却の状況の下、極めて危うい状況の中で成り立っていることが示唆されています。エルネスト・ルナンは、国民国家が歴史の忘却の上に成り立っていることを指摘しましたが、正にそんな状況です。だからこそ、クエルグ退治の場面で、騎士と戦士は意見が対立したのでしょう。

 イギリスではスコットランドの独立運動によって国家分裂の危機に立たされたことは記憶に新しいところですし、日本でも未だに周辺国との歴史問題を抱え続けています。沖縄の問題も下手をすると歴史の記憶を喚起しかねないほど、切迫した状況になりつつあります。こうした様々な問題を見るにつけ、歴史の記憶を呼び起こすことが、平和で安定した社会の構築にとって必ずしもプラスに働くわけではないということを感じざるを得ません。

 決して読みやすい小説ではなく、冗長と思われるような描写や設定もないわけではないのですが、他方で、著者の奥深いメッセージを感じる作品でした。