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映画、書評、ジャズなど

ポール・クルーグマン「さっさと不況を終わらせろ」

経済

 原書は2012年に刊行されていますが、今回文庫版を手にとってみました。世界的な不況の中で政府が取るべき施策の方向性についての著者の見解が明快に示されています。

 著者の見解を端的に言えば、金利が下限に張り付いている今、やるべきことは財政出動による需要喚起で雇用を増やすべき、ということです。つまり、今起こっている不況のすべては需要の問題だということです。

 クルーグマンはこのことを「子守協同組合」の事例で分かりやすく説明しています。これはある研究者が実際に150組ほどの若いカップルで実証したもののようですが、ベビーシッター代を節約するために、交替で互いの子供の面倒を見るために、協同組合でクーポン制を導入したものです。各夫婦は一定のクーポンを協同組合からもらって、それによって30分の子守サービスを他の夫婦から受けられ、組合を脱退するときには当初のクーポンの数を返却するというルールです。

 しかし、実際に運用してみると、各夫婦は予備のクーポンを持とうとしたため、流通するクーポンの数は各夫婦が手持ちとして持っておきたかった数よりも少なくなってしまった。なぜか。手持ちのクーポンが少なくなってしまったことで不安を感じ、手持ちを増やすまで外出を控えるようになってしまったというわけです。つまり、子守協同組合は不況に陥ってしまったのです。この事例は、貨幣経済についての次の特徴を端的に示しています。

「あなたの支出はぼくの収入であり、ぼくの支出はあなたの収入になる」(P58)

 そして、この事例は、全体として不適切な需要の水準というのがあり得ることを示しています。この状態は結局、組合の理事会がクーポン供給を増やすことで解消されたようですが、こうしたマネー供給の拡大は中央銀行が不景気のときに取る定石です。

 ところが、今回の不況ではこうしたマネー供給の拡大策が効かなかった。なぜなら、「流動性の罠」にはまってしまっているからというのがクルーグマンの見解です。つまり、金利を限界まで押し下げていき、ゼロ近くになっても、それでもまだ金利が高すぎるという状態です。子守協同組合の例に当てはめれば、協同組合がいくらクーポンを刷ってもなお、各夫婦は全体として翌年に備えて手持ちのクーポンを増やそうと行動するような状況です。今の経済も同様に、需要不足で機能不全になっているというのが、クルーグマンの見解です。
 
 こうした状況で需要を増やすためにはどうしたらよいか。クルーグマンは、政府支出を増やすことが必要だと断言します。今の状況は、正にケインズがかつて描いた世界であるというわけです。

 今の経済状況を考える上で、ハイマン・ミンスキーの見解が役立ちます。ミンスキーはレバレッジ、つまり、資産や所得に対して負債がどれだけ積み上がっているかに着目しました。経済安定期にはみんな貸倒リスクに不注意になるのでレバレッジは上昇しますが、こうしたレバレッジ上昇はいずれ経済不安定につながり、それは金融危機や経済危機の温床になるというのがミンスキーの見解です。レバレッジが高ければ、事態が悪化したときにより脆弱になります。これは政府も民間セクターも同様で、経済が好調なときに負債はどんどん増えていくものの、あるとき借りて側に問題が噴出した途端、負債が積み上がった状況から抜け出そうとする集合的な努力が働き、経済が自滅的な方向に進んでいくことになるわけです。それが「ミンスキーの瞬間」です。

「いったん負債水準が高すぎると、ほんのちょっとしたことがミンスキーの瞬間の引き金となるー何の変哲もない不景気、住宅バブル破裂などなど。直接の原因はほとんどどうでもいい。重要なのは、貸し手が負債のリスクを思い出し、借り手は負債圧縮を余儀なくされ、フィッシャーの負債デフレスパイラルが始まるということだ。」(P86)

 こうして、みんなが借金を返そうとする状況に陥った場合、唯一借金をして支出を増やすことができるのが政府だとクルーグマンは主張します。住宅ローンなどの借金の軽減策も有効だとします。

 では、クルーグマンの言うとおり、政府が借金をして支出を増やしても本当に大丈夫なのか、財政赤字の心配はないのか、という疑問が湧いてきます。しかし、クルーグマンは、財政赤字は問題ないと断言します。より厳密に言えば、アメリカくらいの赤字レベルであれば問題ないということになります。

 ではなぜ、イタリア、スペイン、ギリシア、アイルランドは債務問題にはまっているのか。これについてクルーグマンは、自国通貨で借りるか外貨建てで借りるかがすさまじい差をもたらすと述べています。これはユーロという統一通貨の問題につながってきます。ユーロ圏では、統一通貨が導入されたことで、それまで高リスクと思われた国でも安全だと思い込まれてしまい、その結果、ドイツなどから南欧に大量のマネーが流入し、住宅バブルが生じてしまった。各国は自国銀行の借り入れに対して政府保証を付けていたため、バブルがはじけた際に大きな負担を強いられることになります。こうした状況の中、各国が独自通貨を持っていれば、切り下げなどの対応ができたし、自国の中央銀行が政府債を買い入れることもできた。しかし、統一通貨の下では、こうした対応ができなくなってしまった。だから、ギリシアのようなことは、アメリカや日本のように独自通貨を持つ国では起こりえないというのがクルーグマンの見解です。

 インフレのリスクについても、クルーグマンははっきり否定します。流動性の罠にはまっている状況では、いくら中央銀行が資産を購入しても、金利がゼロ近い状況ではそれが融資に回らず、準備金として寝かせたままになるというわけです。ちなみに、クルーグマンはご存じのとおり、高めのインフレを目指すべきという立場です。インフレによって、借り入れが魅力的になるし、負債の実質価値を減らしてくれるし、購買力が下がるけれども労働者はあまり文句を言わないというメリットがあるというわけです。

 以上がクルーグマンの主張の概要ですが、日本のアベノミクスの方向性と概ね整合的です。

 世界的な低金利が続き、これまでの金融政策が機能しなくなっている状況の中、クルーグマンの示す方向性は明確です。財政赤字を気にすることなく財政出動によって需要を喚起すべきというわけです。

 日本でも現在、日銀による大量の国債買い取りによって、国の財政支出を支えています。これがどの程度持続的かについては、識者の見解は分かれています。ハイパーインフレを招きかねないという見解がある一方で、クルーグマンはそんな心配は要らないと言います。

 また、世界的な低金利が続き、米国でも利上げの議論が出ていますが、金利を上げるべきというOECDらの主張に対してクルーグマンは強く批判します。

 いずれの主張が正しい方向なのか、直ちに判別することは困難ですが、今のところは、クルーグマンの処方箋どおりに進んでいるという面はあることも事実です。
 
 本書は極めて分かりやすく、今の状況に照らしてみれば説得力もあります。が、いずれにしても、景気回復に向けた基本的な処方箋についてまで、大きく見解が分かれているところに、経済学の難しさというか、ある意味、根本的な問題が横たわっているような気もします。