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岡本裕一朗「フランス現代思想史」

 レヴィ=ストロース構造主義に始まり、ポスト構造主義デリダ脱構築といった流れが、著者の視点で簡潔に整理されている本です。フランス現代思想を簡潔に概観するには、大変手っ取り早い本です。

 フランス現代思想というと、何やら難解な印象ばかりを持ってしまいがちですが、著者の問題意識もその点から出発しています。本書のプロローグでは、いわゆる「ソーカル事件」が紹介されています。この事件は、ソーカルが、著名なフランスやアメリカの知識人たちが書いた、物理学や数学についての本物の引用を詰め込んだいんちきなパロディ論文を作成し、それが現代思想系の雑誌に投稿され、掲載されてしまったという事件です。つまり、著者でさえ意味が分からない論文が、雑誌の編集者たちに評価されてしまったというわけです。この事件は、フランス現代思想の難解な文章はそもそも理解不能なものだったのではないか、という疑念を抱かせることになります。

 著者は、このソーカル事件によってフランス現代思想が無に帰してしまうことはないとしつつ、他方で、

「批判すべきは、“数学や物理学の概念や用語の濫用”によって、曖昧模糊としたナンセンスな文章を繰り広げたことにある。」

との見方を取った上で、フランス現代思想を批判的に再解釈しようとされています。こうした数学や物理学の概念や用語の濫用という意味では、レヴィ=ストロースが親族構造や神話構造をそうしたアプローチで定式化しているわけで、それが後世のモデルとなっているわけです。このため、本書はレヴィ=ストロース構造主義からまず取り上げられています。

 レヴィ=ストロースは、民族学の膨大な資料を解明するために、数学における構造主義に頼ろうとしました。そして、未開の親族関係が現代数学によって解明されることを示すことで、レベルの低いと思われていた先住民の生活は、実はそうではないのだ、ということを示そうとしたわけです。さらにレヴィ=ストロースは、「野生の思考」こそが最も現代的であり、西洋近代の思考よりも優位にあることを示そうとします。

 こうした見地に立って、レヴィ=ストロースサルトルについて、未開人に対する文明人の偏見を引き継いでいると批判したことはよく知られていますが、こうしてレヴィ=ストロース構造主義は、当時の流行と化していきました。

 しかし、こうしたレヴィ=ストロース構造主義に対し、著者は、

「・・・厳密に証明したり論証したりするためではなく、レトリックのためにわざわざメタファー的に数式を使う必要があるのだろうか。それは数式を使って厳密にするはずの議論を、むしろ曖昧化するだけではないだろうか。」

と批判的に捉えています。

 こうしたレヴィ=ストロース構造主義に刺激を受け、ソシュール言語学の概念を使って人間の無意識を支配する構造に迫ったのがラカンです。ラカンも、レヴィ=ストロースと同様、数学的な表現や概念を多用しました。しかし、これについても著者は、無意識の構造を数学的に表現することには無理があると述べています。

 構造主義の旗手と見られがちなフーコーも、ある時期までは自らを構造主義者として見なしていたようです。確かにフーコーは、一定の時代における人びとの思考における無意識を解明しようとしていたわけですが、フーコーは後になって構造主義のレッテルを貼られることを拒否するようになり、権力論にシフトしていくことになります。

 そして、「欲望する諸機械」や「リゾーム」といった概念を提示し、はっきりとアンチ構造主義を標榜したのがドゥールーズとガタリです。ドゥールーズは、フーコーが権力関係に閉じこもって袋小路にぶつかってしまったと述べているのですが、著者は、ドゥールーズも結局は管理社会への抵抗について何も語ることができなかったとみなします。

 さらに、「脱構築」という概念によって伝統によって隠蔽されたものの解明を試みたデリダも、構造主義を批判します。デリダは、西洋思想を支配してきた「音声中心主義」は構造主義まで引き継がれていると批判し、「郵便」モデルを提唱します。

 その後、フランスの現代思想は周縁的なものへと追放されていきます。リオタールの提唱する「ポストモダニズム」は、もはやフランスの現代思想とは別の形のものです。そして、時代は「言語論からメディア論へ」という方向へ向かっていったのがポスト構造主義以後の思想だと著者は指摘します。著者はこれを「メディア論的転回」と呼びます。

 
 このように、本書は構造主義以来の思想を検証しつつ、これからのフランス思想の可能性としてメディア論に期待を寄せ、これをフランス現代思想の新段階として捉えています。

 この最後の帰結に賛同するかどうかは多少躊躇してしまう面があるのですが、今後の行き先をメディア論にしか見出せないところこそ、フランス現代思想の行き詰まりを象徴していると言えるかもしれません。

 確かに、冷戦終了後の世界において、思想の持つ力が急激に衰えているように思います。フーコーデリダといった思想家たちの難しい論文と格闘したとしても、リアルな社会を考える上においてどれほど役立つのかと無力感を感じてしまう人たちが多くなったのではないかと思います。思想の世界に巨人が誕生していないのも、こうした思想の行き詰まりによるものではないかと思います。

 とはいえ、本書はフランス現代思想を概観するには大変良くできた入門書であり、その鋭い筆致も大変スリリングで刺激的なものでしたので、久しぶりにフランス現代思想をおさらいするにはふさわしい本でした。