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ハノイ放浪記

 年末年始はベトナムの首都ハノイを旅してきました。これまでホーチミンには2度ほど行ったことがありましたが、ハノイは初めてなので、とても楽しみにしていました。

 ハノイの空港に到着すると、タクシーで市内に向かいます。メーターのタクシーを使うと50万ドンくらいになります。中には白タクを相乗りで利用して65万ドンを取られたという観光客もいました。ちなみに、帰りの空港までのタクシーは、ホテルのベルボーイがタクシー運転手と交渉してくれて、37万ドンまで値切ってくれました。

ハノイの街並み

 ハノイの街並みはお世辞にも美しいとは言えず、荒れ放題の建物で人びとは暮らし、商売をしているといった感じです。ただ、よく見ると、多くの建物のバルコニーの欄干はコロニアル風に装飾がほどこされているなど、かなり手が込んだ建築となっています。それなりの統一感がある建物が建ち並んでいますので、もし建物が綺麗に手入れされれば、街並みも一変するのではないかと思います。

 ハノイの象徴的な建物の一つがオペラハウスです。1911年に建築されたものです。

 それから、1886年に建てられたハノイ大教会。

 しかし、何と言ってもハノイの魅力は、旧市街の雑踏感でしょう。細い道が入り組んでいる中をバイクが頻繁に行き交います。

 歩道は、バイクが止められていたり、椅子に座って会話や食事を楽しむ人たちが多くいるため、真っ直ぐ歩くことはほぼ不可能です。車道にはみ出しながら、バイクとぶつからないように気をつけながら歩く必要があります。歩道のど真ん中に大きな穴ぼこが空いていることもしばしばで、日本だったら直ちに市当局に苦情が行きそうなものです。

 でも、そんな整然としていなところこそがハノイの魅力と言えるでしょう。

 そんなハノイの人たちの憩いの場になっているのが湖です。市内の中心部にあるホアンキエム湖は、激しい喧噪のハノイの市内の中で異次元の空間を醸し出しています。けたたましいバイクのクラクションの音が湖面に吸い込まれているかのように、湖畔では静かな時間が流れています。

 ホアンキエム湖に沿って歩道や緑地が整備されているので、歩いたりベンチに腰掛けたり、思い思いの過ごし方を楽しめます。これが欧米であれば間違いなく大量の人たちがランニングをしているところですが、ハノイではランナーの姿はまだまばらです。

 市内から北に向かったところにある西湖も、ハノイ市民に安らぎを与えてくれる場となっています。

 湖畔にはハイランズ・コーヒーがあり、湖を眺めながら落ち着いてコーヒーを飲むことができます。

 ちなみに、コーヒーといえばブラジルというイメージがありますが、今では世界のコーヒーの輸出量No1はベトナムのようです。

 ハノイはフランスの植民地だったことも影響しているのか、屋外のカフェが結構目立ちます。冬でもそれほど寒くないので、屋外はとても快適です。歩道に椅子を出して佇む人たちも、ある意味、屋外を快適に満喫しています。歩道がある種の社交場になっているのでしょう。バイクの排気ガスで決して空気が綺麗ではなさそうですが、これも一種のストリート文化と言えるでしょう。

ホーチミンという人物

 ハノイでは建国の父であるホーチミンに対する尊敬の念を大変感じます。それを一番感じる場所はもちろんホーチミン廟です。

 この建築物は1975年に建てられていますが、中にはいるとホーチミンの亡骸が安置されています。その周囲には4人の衛兵が身動き一つせず配置されており、ホーチミンの亡骸を守っています。少しひんやりとしていることが、この空間をより一層厳かなものにしています。

 ホーチミン廟のすぐ横にはホーチミンの住んでいた家が展示されています。割と広々とした敷地に高床式のこじんまりとした住居が佇んでいます。

 中央の池の噴水が時折水しぶきを上げます。

 ガレージには3台の車が保管されていますが、そのうち2台はソ連からの贈り物、残りの1台はフランス領のニューカレドニアに住んでいたベトナム人から贈られたというプジョーです。

 ホーチミンプジョーに乗っていたというのもやや意外でした。そして、ソ連から贈られた車に乗っていたという事実は、ベトナム社会主義国であるということを改めて思い出させます。

 同じくホーチミン廟の近くにはホーチミン博物館があります。

 そこでは、ホーチミンにまつわる様々な展示がなされていますが、このときはソ連との関係にフォーカスした特別展示が行われ、ロシアのプーチン大統領ベトナムを訪問した際の写真などが展示されていました。

 ホーチミン廟もソ連の多大な貢献で建築されたものであることにも触れられています。こうした展示を見ると、今でもロシアとベトナムは親密な関係であることを改めて思い出させられました。

年越しのハノイ

 旅行した時期がちょうど年越しの時期だったこともあり、街では年越しの準備が進められていました。道路の上にも新年を祝う飾り付けがなされているのですが、車が頻繁に行き交う細い道のど真ん中に足場を組んで作業を行っている光景は新鮮でした。

 車がぶつかれば事故につながりかねませんが、そういうことはあまり気にしないのでしょうか。

 街の新年を祝うポスターも、いかにも社会主義っぽいポスターだったのが印象的です。

 街ではあちらこちらに巨大なステージが設けられ、西洋の影響を受けていることが一目瞭然のヘビーなロック・ミュージックやグルーヴィーなダンス・ミュージックが流されていました。その大音量といったら半端なく、人びとの鼓膜を破壊しようという企てではないかと思うくらいです。ステージ近くでは若者たちがこぶしを突き上げてノリノリで踊っています。

 オペラハウスの前には巨大なステージが設けられ、大晦日の前日から様々なステージが展開されていました。

 30日には日本の演歌や歌謡曲に似たような雰囲気の曲を歌手が歌っていたりしましたが、ちょうど通りかかると、オリンピックにおけるベトナム選手の活躍が背後のスクリーンに流される前で、数名のダンサーが組体操のような踊りを披露していました。

 国威を高めるという意図がもちろんあるのでしょうが、それにしてもこの場面だけは奇妙な雰囲気が漂っていました。北朝鮮マスゲームのような雰囲気もあり、この場面もベトナム社会主義国家としての側面が色濃く表れていたように思います。

 オペラハウスのステージの正面中央には大きく“YAMAHA”の文字が。

 ヤマハがバイクの大量需要国のベトナムの市場に大きな期待を寄せていることが分かります。ベトナムのバイクのシェアはホンダとヤマハでその大半を占めている状況で、シェアNo1は圧倒的にホンダです。2位のヤマハベトナムでのシェア拡大を目指して力を入れていることが分かります。

 大晦日の夜は、おそらくいつも以上に膨大な量のバイクが市内に流れ込んできていました。

オペラハウスの前の道が封鎖されていたので、混雑ぶりはなおさらです。もちろん日本でも大晦日になると大勢の若者たちが街で騒ぐことがありますが、それとはどこか雰囲気が違います。日本の若者たちはお酒を飲んで騒ぐ大晦日であるのに対して、ベトナムの若者たちは、バイクに乗って出て来ていることもあり、街にお酒を飲みに出て来ているというわけではなさそうです。酔っぱらいもほとんど見かけません。そもそも何をしに街中に繰り出しているのかよく分かりません。年越しで気分が高揚して街に繰り出してきているというのが妥当な見方かもしれません。

 同じ頃、上海では年越しに集まった人たちが将棋倒しになって大勢の方が亡くなるという痛ましい事故がありましたが、ハノイでもオペラハウスの前などはやはり統制が取れていない混雑状態でしたので、他のアジアの都市でも同じような事故が起こってもおかしくないように思います。
 

悲劇の王子クォン・デ

 さて、ベトナムに向かう飛行機の中で、森達也氏の『ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー』という本を読みました。

ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー

ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー

 クォン・デという名前を聞いてもピンと来る方は少ないと思いますが、かつてベトナムを統一した阮朝の末裔に当たるこの王子は、フランスからベトナムを解放するために日本の助けを得ようとして日本に渡ってきましたが、結局、その意志を遂げることができず、しかも故郷のフエの地に再び足を踏み入れることもできず、失意の中、日本でひっそりと亡くなった方です。本書では、クォン・デが日本に来て、犬養毅頭山満らとの親交を持ったこと、そして、ついに日本の積極的な協力を得られなかったこと、そして故郷に戻るに戻れない状況に陥ってしまったことなどが、生き生きと描かれています。

 クォン・デは、25歳のときに、革命家のファン・ボイ・チャウの影響から、妻子を置いて日本に逃亡します。日本で武器の支援を受けてフランスに対抗しようという企てたのです。
 日本にはファン・ボイ・チャウが一足先に渡っていましたが、中国からの亡命者だった梁啓超に会いますが、梁は武器調達の企てに手を貸すことに躊躇します。なぜなら、日本政府はフランスを敵に回すようなことはしないだろうというのが梁の考えだったからです。ファンは犬養毅のほか、大隈重信頭山満らと親交を広げていきます。「東遊(トンズー)運動」と呼ばれる運動も始まり、ベトナムから日本への留学生の数も増えていきます。
 そういう状況の中でクォン・デが来日するわけですが、クォン・デは来日早々からホームシックにかかってしまいます。しかし、クォン・デはフランスの官憲からマークされているのですぐに帰るわけにはいきません。日本政府もフランス政府からの圧力で、ファンとクォン・デに対して国外退去を命じることになります。こうして2人は日本政府に裏切られた形となり、日本びいきだったファンは一転して日本に対する恨みを抱くことになります。

 日本政府に追われたクォン・デは身柄を確保され、上海に向かいます。ファンは日本の外務大臣小村寿太郎宛に抗議書を送り、日本政府の対応を痛烈に批判します。クォン・デは上海でイギリスの官憲の手によって捕らえられ投獄されます。その後脱獄に成功し、ベトナムのタイニンに渡ります。そこでクォン・デは後にカオダイ教を創設するレ・ヴァン・チュンに出会います。クォン・デは程なくしてベトナムを後にし、ベルリンに渡ります。それから中国の袁世凱の招きで北京に渡るも、袁世凱とフランス政府が手を結んでいたことが発覚すると北京を脱出し、上海に渡り、その後杭州の貧民窟に身を潜めます。こうしたクォン・デの窮状を耳にした犬養毅はクォン・デを再び日本に呼び寄せます。

 頼りにしていたファンは逮捕され、その後恩赦によって釈放されますが、もはや革命を牽引する力はありません。クォン・デももはや目標を失いつつあり、インドのビハリ・ボースが身を寄せていた中村屋に入り浸り、そこで中村屋の少女に恋心を抱くようになります。犬養はそんなクォン・デを見て心配になり、早稲田大学に入れたりするものの、それも続きませんでした。犬養は総理大臣になり、クォン・デは期待を高めますが、犬養のクォン・デに対する対応は予想以上に冷たいものでした。犬養は間もなく暗殺されます。

 その後、日本軍は仏印に進駐します。クォン・デは自分の出番だということで日本政府による武器援助があれば自分がベトナムに攻め込むことを日本軍に進言します。日本軍も一時はクォン・デの名の下にベトナムの革命軍とホーチミンのベトミンとを統合しようと企てます。ところが、日本軍は方針を変更し、フランスとの間で日仏軍事協定を締結してしまい、クォン・デがベトナムに戻る案は消えてしまいます。ホーチミン率いるベトミンは、フランスとの協調を優先した日本軍と戦うことになり、ホーチミン率いる共産党が抗仏運動の立役者となります。そうなるともはやクォン・デの出番はなくなってしまいます。その後、日仏協約を破棄した日本は反仏のクーデターにクォン・デを利用することも検討しましたが、結局はバオダイ帝が担ぎ出されることになります。その後も日本軍はクォン・デをベトナムに帰還させる方向で企てを進め、ついに帰還が決まります。何日も迎えの飛行機が来るのを待ち続けたクォン・デでしたが、そうこうしているうちに、日本の敗戦が決まってしまいます。

 戦後、クォン・デは、以前出会ったカオダイ教の教祖からの招きでベトナムに戻れそうな状況になったものの、この企ても寸前のところ経由地のタイから上陸を拒まれることになり、クォン・デは再び日本に引き返すことになります。その後クォン・デは安藤ちゑののもとに暮らしましたが、やがて肝臓癌で亡くなります。

 著者の森氏は、多くのベトナム人がクォン・デのことを知っているが、日本では忘れられてしまっている、というストーリーで取材を始めたのですが、ベトナムを訪れて分かったことは、ベトナムではクォン・デはほとんど知られておらず、しかも、彼は日本で5人の子供を作ったと言われており、それが祖国を捨てて日本での生活を選んだというイメージにつながっているということでした。実際にはクォン・デは日本で子供を作っていないのですが、友人たちと撮った1枚の写真がそうした噂に結びついてしまったわけです。その辺の生き生きとした叙述が本書の面白いところです。

 本書を読んで、このクォン・デという人物と日本政府の対応をどのように捉えるべきかは大変難しい問題だと感じました。本書では、日本のアジア主義の考え方が、次第にアジアへの侵略を整合化する思想に変質していき、それによって日本がファンやクォン・デたちを裏切ることになったというニュアンスで描かれています。しかし、他方で、インドのビハリ・ボースらが同様に日本に亡命して、日本での人脈を活用して多くを吸収していき、祖国の独立に貢献したのと比べると、ベトナムのクォン・デの日本での活動はかなり物足りなかったという面も重要な点でしょう。クォン・デがもう少しでも縦横無尽に動き回る才能を持ち合わせていれば、ベトナムの歴史ももしかすると大きく変わっていたかもしれません。

 ハノイに来てホーチミンの存在感の大きさを感じれば感じるほど、その陰で歴史の波に乗れずに忘れ去られていくクォン・デの存在が哀しく非情に浮かび上がってきてしまうのを感じてしまうのでした。。。

ハノイの人びと

 ハノイはある意味で、古き良きアジアの雑踏感や雰囲気が色濃く残っている街です。

 資本主義世界に組み込まれ、大量の外資が流れ込んできているホーチミンに比べて、ハノイはまだ欧米企業の名前が前面に出ているという感じにはなっていません。

 また印象論に過ぎませんが、ホーチミンに比べて貧富の差はそれほど感じません。富裕層の存在がそれほど感じられず、富裕層の行く店といってもたかが知れている感じです。ベトナムでは例えば有名な芸能人などはホーチミンを拠点にして活動している例が多いようですが、それはハノイよりもホーチミンにお金が集まっているからでしょう。ハノイのショッピングセンターには確かに欧米のブランド店がずらりと並んではいるものの、客足もまばらです。

 このようにハノイは資本主義世界にどっぷりと浸かっているとまでは言えない状態で踏みとどまっている印象を受けます。もう一歩進むと、ホーチミンバンコク、香港といったアジアの大都市の属するエリアに足を踏み入れることになるのでしょうが、あと一歩のところで踏みとどまっています。それは、我々日本人がとうの昔に踏み越えてしまっているラインです。

 あくまで勝手な印象ですが、ハノイの人びとは、それほどお金は持っていないけれども、それなりに幸せを噛みしめながら生きているように見えます。おそらく日々暮らしていくために仕事で手一杯なのでしょうが、周りにとびきりの富裕層もいないので、さほどの嫉妬を感じることなく生きられるのかもしれません。お金をためてレジャーをエンジョイするというところまでは来ていないものの、他方で仕事のやりかたは欧米流の管理主義がそれほど浸透しておらず、そこそこ息抜きをしながら仕事をやっているようにも感じられます。

 ハノイの近郊にはホーチミンほど外資の工場が進出している状況にはありませんが、キャノンなどいくつかの日本企業の工場も見かけました。また、ハノイでは初めてというイオンモールも着々と建設が進んでいます。

 こうした外資進出の波が大きくなってくると、確かに給与面では向上するかもしれませんが、他方でハノイの人たちの仕事のやり方も張りつめたものに変わっていかざるを得ないでしょう。
 ハノイが資本主義世界の波に完全に飲み込まれる日も近いのでしょう。

 ハノイホーチミンほどではないにせよ、やはり凄い量のバイクが走っています。

 旧市街では道が狭い上にバイクの量が多いことから、慣れないと街を歩くのに心底苦労させられます。バイクの運転と道路の横断に関しては、ハノイの人びとのたくましさを感じざるを得ません。

 道路ではクラクションが鳴り響き、人と車とバイクが接触すれすれで行き交っていますが、不思議と喧嘩や事故を目にすることはそれほど多くありません。クラクションはいらいらして闇雲に鳴らされているというわけではなく、おそらくは自分がここにいるということを知らせるために効果的に使われているように見えます。接触しそうになると、どちらかが譲らなければならなくなるわけですが、どちらが前に出るかについて絶妙なあうんのルールがあるのでしょう。これはおそらく長年地元で育った人だと自然に身に付くものと思われます。観光客はぶつかりそうになると焦って小走りになったりするので、呼吸が合わずに危うくぶつかりそうになることが頻繁に起こります。

 事故といえば滞在中に一度だけ目撃しました。左折しようとするバスが、若い女性の運転するバイクの後ろからコツンとぶつかったのです。しかし、バスの運転手は悪びれる様子もなく、だから言っただろう、といった雰囲気でバイクの女性に声をかけています。バイクの女性も何も反論もせずにすごすごと走り去って行ってしまいました。これが唯一目撃した事故だったわけですが、日本であれば警察を呼んで事情聴取みたいな感じになりかねないところ、ベトナムではこうした事故くらい日常茶飯事なのでしょう。

 道路を走る車やバイクのルールというのは、おそらく若者中心の国ベトナムだからこそ出来上がっているのではないかと思います。どう見ても、お年寄りにとってはなかなか対応しづらいうルールです。若者たちが勝手にアバウトなルールを作ってしまい、それにお年寄りたちも対応せざるを得なくなっているのではないかと想像してしまいます。

ハロン湾の絶景

 ハノイに来た観光客の多くが訪れるのがハロン湾です。バスで片道3時間以上かかりますので、丸1日かかるツアーとなります。カトリーヌ・ドヌーヴが主演した映画『インドシナ』で、養女のカミーユと恋人のジャン・バチストが一緒に逃げるシーンの舞台となっていることで有名です。

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 秘境というイメージがありますが、行ってみるとすっかり観光地化されていて、多くのホテルが建ち並んでいます。

 クルーズ船の乗り場も世界中からの観光客でごった返していました。

 湾内には海面から突き出た岩山が点在し、その隙間を縫うようにしてクルーズを楽しむことができます。中には宿泊も可能なクルーズ船もあるようです。

 ハロン湾全体は結構広く、多くの洞窟があり、何泊もして廻る観光客もいるようですが、日帰りのクルーズでは近場のティエンクン鍾乳洞を見学して帰ってくる感じになります。

 ティエンクン鍾乳洞は1993年に発見され、1994年に世界遺産に登録されたので、比較的新しい観光スポットです。洞内に入ると、広大な空間がぽっかりと広がっており、一部、天井のところに地上とつながっている穴が空いていて、光が差し込んでいます。

 洞内はカラフルなライトアップが施され、歩きやすい歩道が整備されています。

 世界遺産であるにもかかわらず、鍾乳洞の中を大胆に削って歩道を造ってしまうところは、日本では考えられないことでしょう。

 洞内には噴水がありますが、これも人工的にちゃっかり造られたもののようです。

 ガイドさんが天井の岩を指し示しながら、あれは龍の形だ、あれは蛇の形だ、あれは男女の形だ、などと解説しれくれますが、はっきり言って、あまり心に響きません。こういう見せ方の善し悪しについては賛否が分かれるでしょう。
 ただ、やはりこれだけの壮大な造形物が出来上がるまでにかかった年月を思い浮かべれば、そのスケールに圧倒されます。

 途中、小さな船に乗り換えて、岩場を巡りました。

 岩場の小さなトンネルをくぐり抜けると、そこは四方を高い岩に囲まれた広大な空間が広がっています。



 潮が満ちているとトンネルが塞がれてしまうようですので、そうなるとこの空間は正に閉ざされた空間になるわけです。これは確かに見たことがない光景です。

 それにしても、ハロン湾は穏やかな海です。日本の瀬戸内の海をさらに優しくした感じでしょうか。そんな海をクルーズ船がゆっくりゆっくりと進んでいきます。

 多くのクルーズ船が湾内を航行していますが、それもまた絵になります。夕暮れどきになると、ロマンチックな雰囲気が増していきます。世界中の観光客を魅了するのももっともです。

 一生に一度は見ておいて全く損のない風景であることは間違いありません。

ハノイの食

 ベトナムといえばフォーが断トツに有名で、ホテルの朝食などあちこちでフォーをおいしいフォーを食べることができます。そんな中で地元の方や観光客に有名なのが「マイアン」です。


 肉団子が入ったスープに、揚げパンを浸しながら食べますが、やはり美味しいです。

 またブン・チャーもハノイの有名な料理の一つでしょう。焼き肉と米麺、さらに揚げ春巻や香草を一緒にタレに浸けて食べるというものです。ガイドブックに載っている有名な店が「ダックキム」という店ですが、その隣にも同じような外観の店があり、そこで食べましたが、まぁまぁ美味しい料理です。


 また、観光客に人気の「リトル・ハノイ」でもブン・チャーを食べましたが、個人的にはこちらの方が洗練されていて好きです。

 もう一つ食べたのは、チャー・カーという食べ物です。雷魚を油で揚げたものに、米麺や香草、ピーナッツなどを絡めてマムトムという調味料をかけて食べるという料理です。ハノイには「チャー・カー・ラボン」という店が何軒かありますが、今回は西湖のそばにある店で頂きました。

 香草がこれでもかというくらいに盛りつけて出されますが、一見、ただの葉っぱのように見えますが、食べてみるとあまり苦くなく食べやすいです。香草をたっぷり絡めますので、思ったより油っぽくもなく、値段は17万ドンですが、食べてみる価値はあります。

 なお、観光客に人気のある「クアンアン・ゴン」という店は、屋外の広いスペースを活用したベトナム料理店で、快適な空間の中でいろんな料理が楽しめる店でした。

ハノイのジャズ

 ハノイのジャズクラブに、ビンミン・ジャズ・クラブがあります。
http://www.minhjazzvietnam.com/

 オペラハウスの裏手にありますが、毎晩21時からステージが行われています。

 オーナーの息子さんと思しきミュージシャンがサックスを奏でており、ピアノ、エレクトリック・ベース、ドラムという組み合わせで、時折女性ヴォーカルが参加するといった感じでした。曲は、♪Night and Day, ♪All of Me, ♪When I Fall in Love, ♪Lullaby of Birdlandなどのスタンダードが演奏されており、演奏のレベルも高く、とても気持ちのよいライブを展開されていました。

 客はやはり欧米人が多い感じでしたが、地元の方々も集まっていて、終始にぎやかな雰囲気が店を覆っていました。

 店のHPによると、オーナーのQUYEN VAN MINH氏は30年前にアメリカのラジオやBBCでジャズに触れて以降、ジャズに心酔しているようです。30年前といえば、ベトナム戦争が終結してそれほど日が経っておらず、冷戦も終結していない時期ですが、その頃にベトナムでジャズを志すということは、ある意味勇気がいる行動だったのかもしれません。日本でも戦後間もない時期からジャズを志す大勢のミュージシャンたちがいましたが、戦後民主主義国家の仲間入りした日本と、戦後も社会主義国だったベトナムとはだいぶ事情が異なるように思います。オーナーはジャズミュージシャンの育成に力を入れているようで、この店で演奏しているミュージシャンたちも教え子のようです。

 かつてフランス領だったアジアの地でアメリカの音楽であるジャズをベトナム人たちが演奏しているのを聴きながら、ジャズが全世界共通の言語であることを改めて実感しました。

タンロン遺跡

 ハノイには、世界遺産となっているタンロン遺跡があります。2010年にユネスコ世界文化遺産に登録されています。

 李朝が1010年にこの地に都を定めたようです。
 ちなみに、ホーチミン廟のすぐ近くにある一柱寺もこの時期の建築とのこと。

 その後、阮朝がフエに都を移すまで、ベトナムの都があった地です。ベトナム戦争中にはベトナム人民軍の司令部が置かれていたそうで、地下の階段を降りていくと、そこには会議卓があり、かつて重要な決定が行われたことが窺えます。

 道を挟んで反対側の敷地では現在も発掘作業が続けられています。

 長期間にわたって都が置かれていたため、遺跡が幾層にも積み重なっているようです。時代との関連性がもう少し分かりやすく工夫された展示となっているとよいのですが、ただ端門はとても壮観ですし、歴史的な価値は高い遺跡であることは間違いなく、一度は足を運んでみるべき場所だと思います。

雑感

 初めてのハノイはとても居心地のよい旅となりました。ハノイの喧噪と穏やかなハロン湾の対照的な雰囲気も大変良かったです。

 ベトナム人はどこか女性的な雰囲気がします。トリップ・アドバイザーでハノイ観光のNo1スポットになっているベトナム女性博物館を訪れると、ベトナムの伝統的な信仰に母性崇拝がよく分かります。

 この母性崇拝こそがベトナム社会の基礎を築いていると言っても過言ではないように思います。

 この博物館では、母性崇拝を表すキーワードとして、純粋な心(pure heart), 美(beauty),喜び(joy)を掲げていましたが、ベトナム人の気質がこうした要素によって成り立っていることがよく分かりました。

 ちなみに、この女性博物館の敷地には雰囲気の良さそうなカフェも併設されており、今度はゆっくり座ってみたいと思います。

 ハノイもいずれ資本主義世界の波をもろにかぶることになると思いますが、今はまだ踏みとどまっている状況に思います。貧富の差も間もなく拡大していくことでしょう。そうなると、アジア都市らしい雑踏感という魅力も失われていくことになるかもしれません。

 今後、どのように現在の魅力を残した形でハノイが発展していくのかを確認する意味でも、またいつか旅で訪れてみたいと思う、そんな都市でした。