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エンリコ・モレッティ「年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学」

年収は「住むところ」で決まる  雇用とイノベーションの都市経済学

年収は「住むところ」で決まる 雇用とイノベーションの都市経済学

 邦題から受ける印象は浅薄ですが、ローカル・アベノミクスの一丁目一番地である地方創生を考える上で必読の本と言っても過言ではありません。原題は“THE NEW GEOGRAPHY OF JOBS”ですので、直訳した方がはるかに本書の内容を的確に表しており、本書を手に取る人ももっと増えたのではないかと思われるのですが、なぜこんな浅薄なタイトルにしてしまったのでしょうか。出版社の完全なミスだとしか思えません。

 本書は、トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』における主張、すなわちグローバル化によって地理的な場所が持つ意義が薄れてきたという主張に対するアンチテーゼとなっていますが、同じく同書に対するアンチテーゼであるリチャード・フロリダの『クリエイティブ資本論』とは異なる見解に立脚しています。

 本書の主張を端的に言えば、イノベーション産業の成長によりハイテク産業のみならず非ハイテク産業の雇用を増やすことができるのだということです。イノベーション産業の雇用が先進国の雇用に占める割合は小さく、雇用の3分の2はサービス業が占めているわけですが、サービス業は雇用の多くを占めているものの、サービス業の生産性は大して伸びず、繁栄の牽引力にはなり得ないと著者は述べます。

 かつては、製造業の生産性向上が他の産業の生産性をも伸ばしていました。近年、ものづくり復活の動きがあるものの、著者は雇用問題の解決策にはなり得ないと切り捨てます。地元産品の魅力というのも、特別なものであるというイメージが重要な要素となっているので、ビジネス規模の拡大には限界があります。こうして、今や製造業ではなくイノベーション産業が牽引の役割を果たしているというのが本書の主張の核となっています。

 著者は、貿易部門の産業で労働者の生産性を高めることで、非貿易部門の産業でも労働者の賃金水準を高めることができるとします。さらに、次のように指摘します。

「ある都市でイノベーション産業の新たな雇用が生まれると、同じ都市で非貿易部門の雇用もつくり出されるのである。」(p81)

 つまり、科学者やソフトウェアエンジニア、数学者の雇用が増えれば、地域のサービス業に対するニーズが高まり、その結果、タクシー運転手や家政婦、大工、ベビーシッター、美容師、医師、弁護士、犬の散歩人、心理療法士の雇用も増えるというわけです。著者によれば、イノベーション産業の乗数効果は高く、都市にハイテク関連の雇用が一つ創出されると、最終的にはその都市の非ハイテク部門で5つの雇用が生まれるとのこと。

 こうしたことから、本書の邦題のタイトルにあるように、教育レベルの高い都市の高卒者の収入は、しばしば、教育レベルの低い都市の大卒者の収入よりも高い、という現象が生じることになります。

 イノベーション産業には集積効果があるとされています。それは「厚みのある労働市場」「ビジネスのエコシステム」「知識の伝播」の3つの要素によります。「ビジネスのエコシステム」とは、そこに来れば新興企業にとって活動しやすい様々な業態が整っており、副次的な業務に煩わされずにイノベーションに集中できるということです。特に重要なのはベンチャーキャピタルです。ベンチャーキャピタルはローカル指向が強いので、近場に投資する傾向が強い面があります。

 こうして見てくると、イノベーションが集積するところはますます強みを発揮していくのに対して、それに乗り遅れてしまった地域はますます衰退していき、都市間の格差が一層拡大していく傾向が感じられるわけですが、では質の高い雇用を生み出したり、そうした人材を引き寄せることに成功していない地域はどうすればよいのでしょうか?

 この点を考える上で、著者は興味深い指摘をしています。それは、社会学者のリン・G・ザッカーと経済学者のマイケル・ダービーが唱えた次のような仮説です。

「民間のバイオテクノロジー企業がどこに本拠を置き、その土地でどのくらい成功を収められるかを左右するのは、スター研究者の存在だ」(p238)

 ある地域がハイテク産業を育てられるかどうかは、数人の傑出した科学者、ビジョンを持っていて画期的なテクノロジーを使いこなせる人物の存在にかかっているというわけです。その理由として、著者は次の2つの点を挙げています。1つめは、新興企業の科学者や研究員が最新の科学的情報を得ようと思えば、最先端の学術研究が行われている場のそばに身を置く必要があること、2つめは、スター研究者自身が有力新興企業の立ち上げに関与するケースがしばしばあること、です。

 例えばハリウッドについて見ても同じで、ハリウッドが映画産業の中心となったのは、映画監督D・W・グリフィスという一人のスター級の人物の存在があり、シリコンバレーも、トランジスタを発明した発明家ウィリアム・ショックレーの存在が大きかったわけです。

 このように、イノベーションにとって人的資本が決定的に重要になるわけですが、そうした観点から、著者は移民の重要性に着目しています。つまり、人的資本を充実させるためには、国内の教育の質を劇的に向上させるか、高技能の移民を受け入れて人的資本を輸入するかのどちらかしかなく、高技能の移民の受け入れは地域のイノベーションに大きく貢献するというわけです。移民は非移民よりも起業する確率が30%近く高いというのは興味深いデータです。


 以上が本書のあらすじです。

 こうした主張は一見するとリチャード・フロリダの見方に近いように見えますが、著者はフロリダの見解を批判しています。フロリダの主張は、クリエイティブ・クラスは生活の質に敏感であるので、知的興奮と刺激を味わえる都市を築くことが地域経済の成長にきわめて重要であるというものですが、著者によれば、フロリダの主張はものごとの原因と結果を混同しているとのこと。

「成功を収めているイノベーション産業の集積地の歴史を見るとわかるように、多くの場合は、堅実な経済的基盤が形成されたからこそ、その都市に充実した文化とリベラルな雰囲気が生まれたのであった、その逆ではない。」(p250)

 著者は、ベルリンはヨーロッパ屈指のクールな町でありながら、堅実な経済的基盤を築けていないことをその例証として挙げています。


 本書と比較して興味深いもう一つの著作は、冨山和彦氏の『なぜローカル経済から日本は甦るのか』です。

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書)

なぜローカル経済から日本は甦るのか (PHP新書)

 冨山氏の著書は、昨今のローカル・アベノミクスや地域創生に関する政策論議の理論的バイブルとされていると言っても過言ではありません。その主張の最大の特徴は、グローバル経済圏(G)とローカル経済圏(L)の2つの経済圏に分けた上で、それぞれで別の戦略を用意すべきとしている点です。日本の雇用のうちLが圧倒的な割合を占めていることを指摘しつつ、Lの雇用をいかに維持していくかという問題意識を抱いている点はモレッティと共通しているところですが、モレッティと決定的に異なるのは、GとLの関連の薄さを強調している点です。つまり、モレッティは、Lの雇用を維持し、Lの生産性を高めるためにG(モレッティの言葉で言えばイノベーション産業)の牽引力に期待しているのに対し、冨山氏はLはLの世界の中で、労働生産性の低い企業には退出してもらい、労働生産性の高い企業に集約化していくことで、Lの労働生産性を上げていくべきだと捕らえている点です。

 私は冨山氏の主張に共感するところが多いのですが、この点についてはモレッティの見解を支持したい気持ちになります。地方のサービス産業のみを取り出してその生産性を集約化によって上げていくことは、やはり指南の技と思わざるを得ません。安売り競争が激化する中でこれ以上地方のサービス産業の労働生産性を上げることは並大抵ではありません。

 モレッティの言うように、地域にイノベーション産業を呼び込み、高い給与を獲得できる人材を集めることによって、地域のサービス産業の賃金にもプラスの影響を及ぼしていくというやり方しかないのではないかと思います。もちろん、それが決して簡単なことではないことは言うまでもありません。


 ともあれ、モレッティの本書は、地方の雇用をどう守っていくかを考える上で必読の書です。