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レイ・オルデンバーグ「サードプレイス」

 本書は第一版が1989年に刊行されているので、いわば古典の部類に入るかもしれませんが、現代の地域文化論、コミュニケーション論、都市計画論、いずれの観点からも極めて重要な示唆を与えてくれます。原題は“The Great Good Place”ですが、タイトルとしてはサードプレイスの方が内容に見合っていると思います。
The Great Good Place: Cafes, Coffee Shops, Bookstores, Bars, Hair Salons, and Other Hangouts at the Heart of a Community

The Great Good Place: Cafes, Coffee Shops, Bookstores, Bars, Hair Salons, and Other Hangouts at the Heart of a Community

 私も本書の考え方には大きな感銘を受けてきており、地域社会の在り方を考える上で常に念頭にあるのは、本書で描かれたサードプレイスを核とした地域の緩やかな絆のイメージです。今の地域社会における最大の課題は、サードプレイスのような場をどのように構築していくかであると言っても過言ではないでしょう。
 その意味で、邦訳が出たのがちょうど1年前というのは大変遅すぎた感があります。

 著者の問題意識の根底にあるのは、欧米諸国にはインフォーマルな公共生活を作り出す(家庭でも職場でもない)第三の領域があるのに対して、米国にはもはやそのような領域が消滅しつつあり、そのことが米国の人々の生活を貧しくしている、という問題です。

 著者はサードプレイスを次のように定義します。

「サードプレイスとうのは、家庭と仕事の領域を超えた個々人の、定期的で自発的でインフォーマルな、お楽しみの集いのために場を提供する、さまざまな公共の場所の総称である。」(p59)

 著者はサードプレイスの特徴をいくつか記述していますが、その中でも重要な要素は中立の領域であるという点です。

「都市とその近隣住区が、わたしたちにその可能性を約束しているとおりに豊かで多様な交流を提供するには、人の集まってくる<中立の領域>がなければならない。個人が自由に出入りでき、誰も接待役を引き受けずに済み、全員がくつろいで居心地よいと感じる、そんな場所がなければならない。」(p68)

 そして、サードプレイスは人を平等にするもの(“Leveler”)だという点も重要です。つまり、そこでは自分たちを隔てていた階級や身分を離れて、互いに発見し合うことができるというわけです。

「レヴェラーである場所は、その性質からして、誰でも受け入れる場所だ。一般大衆にも敷居が低く、正式な会員資格や入場拒否の基準がない。人間は、自分の社会階級に最も近い人びとのなかから仲間や友人や親友を選びがちだ。しかし堅苦しいつきあいが可能性を狭め、制約を加えがちなのにたいして、サードプレイスは可能性を広げる働きをする。誰にでも門戸を開き、社会的身分差とは無縁な資質を重視することによって、サードプレイスは、他者の受け入れに制約を加えようとする傾向を阻止する。」(p70)

さらに著者は、サードプレイスにおける活動の土台は“会話”だと指摘します。

「そこでおしゃべりが素敵であること、そしてそれが活発で、機知に富み、華やかで、魅力的であることこそ、サードプレイスというものを何より明確に表している。」(p74)

 サードプレイスは、いつでもふらっと行けるような場所です。義務で行くわけではなく、短時間立ち寄って立ち去ることもできるような場所です。ですから、近場にあることが大切です。そこは常連が大勢集まります。


 サードプレイスの在り方は、その国の文化の有り様によって様々です。著者がサードプレイスの成功例として真っ先に挙げているのはドイツ系アメリカ人のラガービール園です。そこでは飲酒に抑制を利かせながら、お金もさほどかからない魅力あるコミュニティが形成されたと著者は指摘しています。

 著者がメインストリートをサードプレイスの例として挙げているのは興味深い点です。本書で取り上げられているのは、人口720人ほどのリヴァー・パークという町です。

「老人も若者もその中間層も、誰もが町のメインストリートを自分のものだと主張した。メインストリートは、そんな彼らをすべて受け入れ、結びつけた。屋外でも、この短い通りに沿ってサードプレイスの交流が頻繁に行われ、拡散されていた。」(p185)

 メインストリート自体がサードプレイスであり、そこを一人でふらっと訪れ仲間を見つけることができる可能性自体がサードプレイスの特徴の表れであるわけです。それは、ショッピングモールでは見られない特徴です。

 それからイギリスのパブも、イギリス人にとってのサードプレイスです。著者は、その肝は規模と暖かさにあると指摘します。しかし、著者によれば、パブは新たなパブの認可を渋る裁判官と、小売業者らに正当な利益を与えようとしないビール会社によってダメージを与えられてきたとのこと。

 フランスのカフェ(ビストロ)ももちろんサードプレイスの好例です。特に開放的なテラス席は、公と私のユニークな融合が促される場所として重要な存在です。こうしたサードプレイスをフランス人が社会制度として根付かせたことが、フランス人の日常生活を維持させてきたという著者の指摘は重要です。

「フランス人はアメリカ人にくらべて制度に多くを期待し、フランスの制度は、豊かな暮らしの三脚台の基盤を提供してきた。家庭と職場の充実感は、すべてのフランス国民が手に入れられる充実したインフォーマルな公共生活と共存している。フランスの居住の限界を補ってきたのは、フランス人が生活のほとんどをインフォーマルな公共の場で過ごすという事実だ。」(p270)


 他方、現代のアメリカには、こうしたサードプレイスが見当たらないと著者は嘆きます。ストリートは腐敗し、人びとはますます私の領域に閉じこもるようになり、余暇の時間の90%を自宅で過ごしているとのこと。公共の領域を捨てて私的引きこもりを取るというトレードオフは、アメリカ経済が取ってきた方針によって促進されたと著者は指摘しています。家と家との間隔が離れ、どこへ行くにも自動車を使わなければならないなど、空間自体がそのように作られ、生活がますます私の領域に向かうようにいわば強制されているわけです。


 以上のように、本書は、かつてのアメリカ社会にあったようなサードプレイスを能動的に取り戻そうではないか、という著者の主張で貫かれています。

 確かにアメリカの映画で映し出される都市やとりわけ郊外の住宅地の殺伐とした光景からは、サードプレイスの存在は感じられません。映画『グラントリノ』でクリント・イーストウッドが公の空間には関心を示さずにひたすら自宅の敷地の芝生だけを丁寧に手入れしているシーンがありますが、アメリカ社会における私的領域への偏重を象徴しているシーンとして印象的です。

 私は、家庭でも職場でもないサードプレイスのような場所が、人びとの生活の豊かさにとって重要な要素であることは全く持って賛成です。それはどの国の社会にとっても共通に言えることではないかと思います。しかし、いざ日本の都市や地方に当てはめてみたとき、どのようなサードプレイスが実現可能なのかと問われれば、いささか答えに戸惑ってしまうこともまた事実です。日本の居酒屋や喫茶店がサードプレイスかと問われれば、そうかもしれないし、そうでないかもしれない、と歯切れの悪い答えになってしまうような気がします。

 本書でもサードプレイスはその国々の文化によって異なるものであるという点は指摘されていますが、その例として挙げられているのが、欧米の事例に偏っていることは、本書の解説の中でマイク・モラスキー氏が指摘されているとおりです。とりわけ、多民族が共存しているようなコミュニティにおけるサードプレイスの在り方をイメージすることはなかなか難しいでしょう。

 アジア諸国でもおそらくサードプレイスのようなものはその国の文化の在り方を反映しつつ存在しているような気がします。寺院などがサードプレイスのような機能を果たしていることも考えられ、アジアのサードプレイスを考えていくことは、研究テーマとしては面白いかもしれません。

 再度日本について考えてみると、家と職場の距離が近い地方の都市や町の方が本書でいうようなサードプレイスをイメージしやすいかもしれません。他方、都会のベッドタウンのように家と職場の距離が離れている地域では、サードプレイスを思い浮かべることが難しいような気がします。

 本書ではあまり強調されている点ではありませんが、私はサードプレイスの概念の重要な特徴は、弱い絆、あるいは緩やかな絆が構築される場であるという点にあるのではないかと思います。家庭や職場での絆はあまりに堅固であり、硬直的なため、サードプレイスのような緩やかで柔軟な絆が必要という面は重要ではないかと思います。本書で強調されているサードプレイスの中立性や平等性といった特徴は、裏を返せば、こうしたサードプレイスにおける絆の柔軟性につながっているように思います。

 本書の主張には様々な課題があることも事実ですが、いずれにせよ、日本社会におけるサードプレイスの実例の掘り起こし、あるいは日本社会におけるサードプレイスの在り方を考えていく、というアプローチが必要なのではないかという気がします。

 これからの地域社会を考えていく上で、必読の書であることは間違いありません。