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村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

 本作も期待を裏切らず、思わず引き込まれてしまうような圧倒的な力を持つ作品でした。

 主人公の多崎つくるは、名古屋での高校時代に4人の友達と固い絆で結ばれる関係を築いていた。アカは成績優秀な学生で父親が名古屋大学の教授。アオはラグビー部のフォワード。シロはほっそりとした美人で、子供たちにピアノを教えることが好きな女性だった。クロは愛嬌があるふっくらとした女性。つくるを含む5人はボランティア活動がきっかけとなって、いつも一緒に過ごす仲だった。そして、つくるを除く4人はそれぞれ名前に色を持っていたが、つくるだけは色がなかった。
 つくるは駅を作ることに大きな関心を持っており、その夢を実現するために東京の大学に進学した。他の4人は名古屋に残ったのだが、つくるはことある毎に名古屋に戻っては4人との関係を継続していた。
 そんなある日、つくるは他の4人から突然関係を切られてしまうことになった。それは4人の中の1人アオから電話がかかってきて告げられたのであるが、つくるには何のことだか分からなかった。何があったのか知ろうとするつくるに対し、アオは「自分に聞いてみろよ」と言うのにであった。

 それからつくるは死んだも同然の生活を送ることになる。そんな中、プールで知り合ったのが二歳下の灰田という男だった。哲学に興味を持ち、フランツ・リストの『ル・マル・デュ・ペイ』を好んで聞く学生だった。その曲はかつてシロがよく弾いていた曲だった。灰田の父親は若い頃不思議な体験をしていた。彼は学生の時分に、大分県の山中の小さな温泉で住み込みで働いていた時期があったが、そこで緑川という名の宿泊客と親しくなった。緑川はジャズピアニストで、小さな布袋をピアノの上に置いて♪ラウンド・ミッドナイトを演奏していたのだが、彼は余命があと二ヶ月であると知っているのだと話をしていた。彼が言うには、その死を回避するためには死の“トークン”のようなものを別の人間に引き渡せばよいという。そうした話をした後、緑川はだまって旅館を出て行った。

 つくるがこの話を灰田から聞いた後、つくるは奇妙な夢を見るようになった。灰田が夢に登場するようになったのだった。夢にシロとクロが出て来て、つくるは必ずシロの中に射精したのだが、その射精を受け止めたのはなぜか灰田だった。灰田はその後秋田に帰郷したまま帰らなかった。

 つくるは36歳になったとき、2歳年上の沙羅と知り合い、恋仲になる。しかし、沙羅とのセックスはうまくいかず、沙羅はつくるが4人の友人たちから拒絶されたことをいまだに引きずっていることに原因があると指摘する。つくるは4人から拒絶されて以降、4人と一切接触してこなかったが、沙羅は4人の情報を調査し、後はつくる自らが調査するよう進言する。

 つくるはまずアオを訪ねる。そこで知らされたのは、当時シロがつくるにレイプされたと言っていたという事実だった。それはもちろんつくるにとって全く身に覚えがないことだった。そしてシロが音大を卒業した後、浜松で一人暮らしをしているときに絞殺されているのを発見されたという事実を知る。その後アカを訪ねた後、クロを訪ねてフィンランドに向かう。

 クロはフィンランド人と結婚してフィンランドに暮らしていた。そこでつくるはクロと長時間話をする。クロによれば、クロはシロがレイプされたという話を最初から信じていなかった。しかし、シロのことを守ためにつくるを仲間から切ったというのだった。なぜシロが嘘をつかなければならなかったのか。クロがいうには、ひとつの理由として考えられるのは、クロがつくるのことを好きだったことをシロが気付いたことだったという。クロはシロを守り続けていたが、やがてそれに耐えられなくなり、陶芸教室で知り合ったフィンランド人と結婚してフィンランドにやってきたのだった。
 クロの話を聞いてつくるはようやくすべてを受け入れることができた。

「人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。」

 つくるとクロは強く抱きしめ合った。誰が何と思おうとそうせざるを得なかったのだ。

 つくるはクロに言った。

「僕はこれまでずっと、自分のことを犠牲者だと考えてきた。わけもなく苛酷な目にあわされたと思い続けてきた。そのせいで心に深い傷を負い、その傷が僕の人生の本来の流れを損なってきたと。正直言って、君たち四人を恨んだこともった。なぜ僕一人だけがこんなひどい目にあわなくちゃならないんだろうと。でも本当はそうじゃなかったのかもしれない。僕は犠牲者であるだけじゃなく、それと同時に自分でも知らないうちにまわりの人びとを傷つけてきたのかもしれない」

 つくるはクロから、沙羅をしっかり手に入れるように言われる。

 東京に戻ったつくるは沙羅に連絡をとり、自分を選ぶか別の恋人を選ぶか、3日以内に結論をもらうことになる。つくるは新宿駅で時間をつぶしながら、向かうべき場所がないし、帰るべき場所もないことをさとる。彼にとって唯一の場所は「今いる場所」だけだった。

 今となってつくるはシロの感覚が理解できた。。。


 以上が本作品のあらすじですが、謎解きミステリーのようなスリルを味わいながら読み進めることができました。なぜつくるは仲間から切り捨てられなければならなかったのか?その背景が明らかになっていくにつれて、読者はグングンと作品に引き込まれていくことになります。その手法は圧巻です。シロがなぜ嘘をつかなければならなかったかについてつくるも次第に受け容れられるようになっていくのですが、それは読者にとっても大変説得力があります。そして、そうした背景を知るにつれ、つくるは自分一人だけが犠牲者だと思っていたのが、実はみんながある面では傷ついていたことを知るようになるのですが、そのロジックは大変よくできています。

 この作品の大きな枠組みは『ノルウェーの森』と共通しているように思いました。いずれの作品にも、主人公と結びつきが深く(恋人ではない!)、心が病んでいる女性の死があります(直子とシロ)。そして、現在を共にしている女性がいて(ミドリと沙羅)、作品の最後はその女性との今後が暗示されるのみで終わっています。主人公がいろいろな事情を納得する助けをしてくれる女性もいます(レイコさんとクロ)。だから、『ノルウェーの森』ファンにとっては、この作品はすんなり受け入れられるように思います。

 ただ、この作品では同性愛的な面が描かれているのが興味深い点です。灰田が射精を受け止めるという夢を描いたくだりがこの作品においてどういう意味を持つのかはいまいちよく分からなかったのですが、この作品において大きな位置を占めていることは間違いありません。

 また、灰田の父親との接点があったジャズピアニストの存在も大きな位置を占めていますが、これがどのような意味を持つのかについては、読む人によってだいぶ感じ方が違っているかもしれません。

 この作品でも音楽が作品のイメージを形作っています。それはもちろん、リストの『ル・マル・デュ・ペイ』です。 期待通りの大変面白い作品でした。