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吉川洋「デフレーション」

デフレーション―“日本の慢性病

デフレーション―“日本の慢性病"の全貌を解明する

 これは近年稀に見る良書だと思います。

 日本においてなぜデフレが起こっているのかについて冷静かつ明快に論じています。ページにして二百数十ページですが、デフレの原因の分析に加え、経済学の迷走を批判的に鋭く考察されています。以下、本書に沿って、簡単に見ていきたいと思います。

 デフレがマクロ経済に与える影響について、次の2点が挙げられます。

1.名目金利を一定とすれば、デフレによって実質金利が上昇し、設備投資や住宅投資など投資の足を引っ張ることになる。

2.アービング・フィッシャーのいう、デフレと不良債権の悪循環。好況期に企業が過大債務を負い、その後やって来る不況期に経済がデフレになると経済は悪循環に陥ってしまう。

 我が国で「デフレ・スパイラル」という言葉が使われるときは、上記2のフィッシャー理論が念頭に置かれている場合が多いわけです。

 日本でデフレの議論が始まったのは1998年頃のようですが、デフレ論争が一気に燃え上がったのは2000年8月の日銀によるゼロ金利解除です。ゼロ金利は時期尚早と考えていた政府部内では日銀に対する批判が一気に高まります。そして、2001年4月に小泉政権ができると、デフレは経済政策のキーワードとして位置付けられます。そして2003年には株価が急落し、デフレ・スパイラルが現実性を帯びてきましたが、その後日本経済が順調に回復するとデフレは中心的なテーマではなくなり、2006年には日銀は量的緩和を解除します。しかしながら、リーマンショック後の世界金融危機の後、デフレは再び問題となってくるわけです。

 さて、昨今、マネーサプライを増やすことを主張する経済学者が拠り所とするのは「貨幣数量説」です。この説はリカードが極端な形で展開し、この説によれば、デフレを止めるのは貨幣数量を増やさなければならないことになります。
 マーシャルも貨幣数量説を受け入れますが、それを目の前に起きているデフレを説明するのに機械的に当てはめることには驚くほど慎重だったと著者は指摘します。つまり、マーシャルはデフレの原因を、安価な輸入財、輸送コストの低下、財・サービスの生産費用の低下、資本コストの低下など貨幣数量の変動以外に積極的に求めたというわけです。
 ケインズは19世紀のイギリスの大不況の後半においてマネーサプライが増加しているにもかかわらずデフレが起こっていた事実に基づき、貨幣数量説をとらず、投資が落ち込んだことこそが物価下落の主因だと主張します。つまり、有効需要の水準こそが物価の騰落を決める決定的な主因であり、デフレを止めて物価を上昇させるためには、投資を拡大し、実体経済の活動水準を上げなければならないというわけです。

 こうして貨幣数量説はデフレの解明には成功してこなかったわけですが、近年の日本のデフレ状況においては、相変わらず貨幣数量説に基づき、マネー・サプライを増やせという主張が目立っています。これに対し、著者は、マネーサプライを増やせばデフレは止まるという考え方はデータによる裏付けを欠いていると述べています。事実、マネーサプライ消費者物価指数(CPI)の値を時系列で並べてみても、両者の動きは大きく乖離しており、その間に関係はほとんど見出せません。

 では物価はどのように決まるのでしょうか?著者は一般物価がその水準にたどりつくプロセスを分析します。カレツキーは価格形成には2つのグループがあるとします。それは「需要によって決まる価格」と「生産によって決まるつくられたモノやサービスの価格」です。農産物や石油をはじめとする鉱産物など一次産品の価格は、需要と供給を一致させるように市場で決まりますが、製造されたモノやサービスの価格決定は、市場ではなく生産者が価格を決めます。その際に生産者が重視するのは生産費用です。そしてこの場合、需要の変動は価格ではなく、生産数量の変化によって吸収されるわけです。

 この点が非常に重要になってくるのですが、これこそが「有効需要の原理」の背後にあるメカニズムなのです。生産と雇用は総需要によって決まってくるのです。少し端折りますが、このことから、著者はインフレ(あるいはデフレ)について、以下のような式を導きます。

π=α(w-g1)+(1-α)(e+πr-gr)
(π:価格の変化率、α:生産費に占める労働コストのシェア、w:名目賃金の変化率、πr:一次産品のドル建て国際価格の変化率、g1:労働生産性の変化率、gr:原材料生産の変化率)

 重要なのは、この式に貨幣量Mは関数として登場してきません。しかし、だからといって貨幣量がインフレやデフレに影響を与えないというわけではありません。それは、名目賃金の変化率wや為替レートの変化eを通して物価の変化率πに影響を与えてくるのです。
 つまりこういうことです。貨幣量を増やせば利子率が低下し、投資を増大させます。このことは、市況性の強い素材価格の上昇や雇用増加による失業率の低下を通じて物価の上昇圧力へとつながります。失業率が低下すれば、名目賃金は上昇しますので、πの上昇圧力となるわけです。

 つまり、貨幣量の増加は利子率の変化を通して有効需要に影響を与え、物価の上昇につながるわけです。

 著者は以下のようにまとめています。

(1) プラスにせよマイナスにせよ、Mが物価上昇率に影響を与えるのは、「景気」を通してである。
(2) Mが「景気」=有効需要に影響を与えるのは、利子率の変化を通してである。
(3) Mが物価の変化率πに影響を与える際の中間項は、?名目賃金、?市況性の強い素材価格である。

 ところが、現在直面しているのは、ゼロ金利状態です。ですから、マネーサプライを増やしても、物価を上昇させることは期待できないのです。

 ところで、なぜ日本だけがデフレなのか?
 著者はその理由を、名目賃金の低下に求めています。先進国の中で名目賃金が下落しているのは日本だけなのです。その傾向は1998年以降はっきりと見られるようになります。
 名目賃金が低下した理由について、著者は大企業セクターを中心に労働分配率が低下したことを挙げています。日本では、賃金は企業の業績を反映して伸縮的にアップダウンする一方、雇用は一定水準に維持される傾向があります。日本企業が厳しい経営を迫られる中、90年代後半から「雇用か、賃金か」という選択において「雇用」が守られたことが、名目賃金の低下につながったわけです。
 また、最近は企業の求人意欲が高まっているものの、医療・福祉部門など雇用を増やした業種はパート比率が高く、それが全体の賃金を低下させている面もあるようです。


 以上が著者によるデフレの分析です。

 なお、デフレの説明としては、貨幣数量説のほかに、人口減少に原因を求める藻谷氏の見解も支持を得ていますが、著者はそうした主張について、労働力人口の減少が経済成長にマイナスの影響を与えるのは事実であるものの、その影響は数量的には小さいとして、一蹴しています。先進国の経済成長は人口の増加ではなく主に一人当たりの所得の上昇を通じて実現してきたのです。

 著者は、デフレは長期停滞の原因ではなく「結果」だと断言します。デフレは不良債権がある場合には大きな問題となりますが、現在の状況下では、長期停滞の根本原因ではないというわけです。

 著者が指摘するのは、デフレが日本企業のイノベーションに与えた「デフレ・バイアス」です。つまり、デフレは消費者の低価格志向を強め、日本企業は1円でも安くコストダウンを図ろうと「プロセス・イノベーション」に専心してきました。その結果、日本経済の将来にとって大きな役割を果たすはずの「プロダクト・イノベーション」がおろそかになってしまったのではないか、と著者は問題提起しています。

「デフレは、日本企業のイノベーションに対して、そうした「プロダクト・イノベーション」からコストカットのための「プロセス・イノベーション」へと仕向けるバイアスを生み出した。これこそが、15年のデフレが日本経済に及ぼした最大の害悪なのではないだろうか。需要創出型のプロダクト・イノベーションの欠如がデフレに陥るほどの長期停滞を生み出し、デフレがプロダクト・イノベーションをさらに萎縮させる悪循環に、日本経済は陥ったのである。」

 最後に著者は、経済学の問題点を鋭く指摘しているのが印象的です。
 市場の役割については新古典派ミクロ経済学、不況や失業やインフレなどマクロ経済の問題を扱うのはケインズ経済学、という風に、経済学は本来「二刀流」であるべきであるのに、過去40年間でケインズ経済学は退潮し、新古典派マクロ経済学が経済学界で優勢になりました。そして著者は、ルーカス、サージェンらによる「合理的期待」モデルの影響で、マクロ経済学は現実の経済とは何のかかわりも持たない知的遊戯に変わってしまった、と痛烈に批判します。
 つまり、過去40年の間に、ミクロの動きを詳しく追うことでマクロを理解するという方法論が定着してしまい、「マクロのことはマクロで」という自然科学では当たり前の方法論があるにもかかわらず、経済学は「ミクロの相似拡大」で「マクロ」を理解しようとしている現状を著者は憂いているのです。

 素人の私でも、今の主流派の経済学者たちの主張は素朴に疑問を抱かざるを得ません。経済学界の重鎮であるはずの学者たちが、貨幣を増やすことであたかも景気が良くなるかのような主張を喧伝すればするほど、企業の現場を知る多くの人びとからは白い眼で見られていることに早く気がつくべきでしょう。

「一つの学問が40年間さまよい続けているのは、まことに奇妙なことだといわなければならない。(中略)企業や家計の最適化から始めるマクロ・モデルは、経済学者の自己満足以外に何ら意味を持たない、政策の根拠になどまったくならないものなのだ。」

 著者のこのあまりに重い言葉を、主流派?の経済学者たちはどこまで受け止められることができるかに、将来経済学が信頼性を取り戻せるかがかかっているように思います。