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伊藤潔「台湾 四百年の歴史と展望」

台湾―四百年の歴史と展望 (中公新書)

台湾―四百年の歴史と展望 (中公新書)

 1993年に初版が発行された本ですが、台湾の歴史を分かりやすく、かつ中立的に叙述している本です。台湾の歴史のエッセンスがコンパクトにまとまっている良書です。

 本書に沿って、以下、台湾の歴史について簡単にまとめてみたいと思います。

 台湾は16世紀半ばにポルトガル人によって「発見」されました。当時和寇や海賊の巣窟であった台湾には、わずかの漢族系の移住民のほか、先住民が居住していました。多部族に分かれていたため、豊臣秀吉が台湾に使者を送って入貢を促した際も、誰に書簡を渡したらよいか分からなかったような状況でした。

 ポルトガルに遅れをとったオランダは、中国や日本との貿易のための中継基地の獲得に乗り出し、澎湖列島に上陸して撤退した後、1624年に台湾の台南付近に上陸します。オランダは先住民を武力で鎮圧します。さらにオランダは台湾の排他的な支配と貿易の独占を図り、外国人による貿易に関税をかけたため、日本人の浜田弥兵衛が台湾長官を襲撃するといった事件も起こります。

 オランダは日本に砂糖と鹿皮を輸出するなどして、多額の利益を得ます。オランダは農業開発にも力を注ぎ、とりわけ砂糖産業の育成を図りました。

 スペインも台湾の北部に進出しますが、これはうまくいかず、17年間の占領の後に撤退します。このときスペインは北投の硫黄の発掘に力を入れたとのことです。

 オランダによる台湾の武力支配は被支配者の抵抗を招き、郭懐一を首領とする蜂起が起こりますが、オランダ兵によって鎮圧されます。

 オランダを台湾から追い出したのは鄭成功です。その父親は海賊の頭領の鄭芝竜で、母親は日本の平戸にいた田川氏で、鄭成功は平戸で生まれます。鄭成功は中国でもはや風前の灯火であった明朝の隆武帝から名前を授けられます。その後、清朝が明朝を圧迫する中、鄭成功漢民族の再興を果たす「反清復明」を決意し、台湾に移ります。

 鄭成功は澎湖列島に続いて台湾を目指します。オランダに対する不信感が高まっていた台湾では、鄭成功は歓迎され、結局オランダの支配は38年で幕を閉じます。鄭成功は台湾に到着して間もなく亡くなります。鄭成功の人気は日本でも強く、近松門左衛門の『国姓爺合戦』の題材ともなっています。

 鄭成功の後は一族が継ぎ、清国は台湾を封鎖します。このため、却って密貿易が栄え、台湾の海上貿易は盛んになります。そして、封鎖政策に苦しむ中国沿岸の住民がぞくぞくと台湾に移り住むことになります。

 しかしながら、鄭政権はオランダ以上に苛酷な支配を行い、住民の反発は強まります。一方、清国は中国内部の敵対勢力を鎮圧すると、台湾の鄭氏打倒に本腰を入れます。結局、鄭氏政権は清国によって滅ぼされます。清国は台湾の領有自体には消極的で、中国本土からの移住民を本土に強制的に引き揚げさせます。また台湾への渡航を厳しく制限し、台湾の先住民と移住民の居住地域の間にくっきりと境界線を設けます。こうした一連の措置により、台湾の開発は著しく阻害されました。本土から送り込まれる官吏の質も低く、住民たちは不満を募らせます。

 やがて、列強が台湾に関心を寄せるようになります。イギリスはアヘン戦争の最中に台湾の港の占領を試み、アメリカのペリーも台湾の港に寄港し、帰国後に台湾占領を主張しました。日本も1871年に琉球宮古島の住民が台湾南部に漂着した際に先住民に殺害される「牡丹社事件」が起こると台湾に出兵しました。この日本による出兵が清国政府の消極的な台湾経営を変えるきっかけとなります。フランスも1884年に台湾に入港しますが、占領を果たすことはできませんでした。

 さて、日本は日清戦争の最中に、台湾占領の重要性が議論され、まず澎湖列島を占領します。フランスは日本の台湾占領の意図を察知すると強行に反対します。台湾の住民はフランスに期待をかけつつ、台湾の住民により台湾民主国独立宣言が布告されます。しかし、この国家は諸外国の承認を得られぬまま、日本軍の進撃で消滅します。

 日清講和条約が締結された後、台湾の領有権は日本に移り、日本軍が台湾北部に進撃します。北部はたやすく制圧できたものの、南進作戦は強い抵抗に遭い、苦戦を強いられます。日本の当時の陸軍の3分の1以上が動員され、海軍の連合艦隊の大半が動員され、台湾住民の犠牲は1万4千人と推定されるそうです。

 日本は、台湾住民に対し、台湾にとどまり日本国民となるのか、所有財産を売却して台湾を去るかを選択する自由を与えました。

 また、民政長官を務めた後藤新平は「生物学的植民地経営」を実践します。これは、台湾を統治するに当たり、比良目の目を鯛の目にすることはできないことをよく自覚して遂行すべきという後藤の持論です。後藤は統治に当たって、徹底的なムチとアメを併用しました。一方では警察を中心に反勢力の鎮圧に当たりました。後藤は台湾人の弱点として?死を恐れ、高圧的な威喝に弱い、?銭を愛し、利益誘導に弱い、?面子を重んじ、虚名と虚位で籠絡しやすい、ことを挙げ、これらの弱点を利用した「治台三策」を執り行いました。80歳以上の高齢者は厚遇でもてなしました。台湾銀行を通じた資金調達によりインフラを整備し、製糖技術の近代化も図ります。基隆港と高雄港を増改築し、その間に縦貫鉄道を敷設しました。こうした台湾経営により、1905年度からは日本政府の台湾総督府特別会計への補助金がなくなり、台湾の財政独立が実現されます。

 台湾における抵抗運動は次第に武力抵抗から政治運動へ転換されていきます。日本統治下における台湾の自治を認めるよう、台湾議会設置請願運動が始まり、日本の知識人たちも支援しますが、日本政府は独立につながることを警戒します。

 日本統治時代は、台湾の教育が著しく変貌します。児童の就学率は極めて高く、台北帝国大学も早々に設立されます。台湾で戦後ノーベル賞受賞者が出ているのは、こうした高い教育レベルのおかげでもあります。特に教師のレベルは高かったようです。著者は次のように指摘しています。

「日本の台湾統治の最大の「遺産」は、インフラ整備におけるソフト面としての教育であり、これなくしては台湾人の近代的な市民としての目覚めは、大幅に遅れたであろう。また、植民地統治下の台湾では、日本人官吏や警察官と比べて、概して教師は使命感が強く人格的にも優れ、敬愛と信頼を集めていた。今日の台湾人年配者に多く見られる親日感情は、これら日本人教師の存在に負うところ大である。」

 中国の国民党政権が台北に視察団を派遣した際、日本の台湾統治に最大級の讃辞を惜しみなく呈し、日本帝国主義の台湾支配を批判するどころか、その成果に驚愕し絶賛しているという事実は大変興味深いものです。

 戦時下において、台湾では重工業が発展します。そして、1942年からは徴兵が始まり、先住民は「高砂義勇隊」を編成します。終戦時、台湾人口の200人に1人が戦争の犠牲になったということであり、しかも、これらの犠牲者は戦後の補償において、日本人との大きな差があったとのことです。

 敗戦時の一般の台湾住民の反応は、この敗戦が何を意味し、何をもたらすのか、ほとんど分からなかったということです。戦後台北に国民党軍が進軍してきましたが、そのときの様子について、著者は次のように述べています。

「このときの国民党軍の低い士気とわびしい身なり、劣悪な装備を目のあたりにしてた多くの台湾人は、日本軍とのあまりの違いに驚愕し、日本が中国に敗れたとは、とても信じられなかった。・・・国民党軍への驚愕と失望は、「祖国復帰」に一抹の不安を抱かせ、期待と喜びに微かな影を落とすものであった。」

 国民党政府の腐敗ぶりは凄まじく、日本の教育が浸透していた台湾の人々から見ると、その公私混同ぶりや腐敗ぶりは驚愕するものであり、国民党軍に対する失望と軽蔑につながっていきます。

「犬(日本人)去りて豚(中国人)来たる」

と嘆く声が聞かれるようになります。

 そんなとき「二・二八事件」が起こります。これは、政府の取締員が台湾人寡婦から密輸タバコを没収したばかりでなく、所持金まで取り上げ、返却を懇願した寡婦に対して官吏が銃で殴打したため、民衆が憤慨し、取締員が発砲して市民が命を落としたという事件です。この動きは全土に広がり、政府は市民に発砲し、多大な犠牲者が生じました。行政長官は台湾住民側と話し合いの姿勢を見せたものの、本土から援軍が到着すると手のひらを返し、台湾人に対して発砲を行い、野蛮な手口で虐殺しました。この「二・二八事件」に関連して、一ヶ月余りの間に約2万8千人が殺害されたとのことです。多くの知識人たちもこの中に含まれました。

 国民党政権は中国本土での情勢が悪化し、台湾への移転を開始します。そして、国民党は台湾においてソ連共産党に似た一党独裁体制を整備していきます。蒋介石は自らを絶対的な存在へとしていきました。陰湿な秘密警察政治も整備します。

 他方、経済は飛躍的に発展していきます。1950年代は輸入代替工業化、60年代は輸出志向工業化、70年代は重工業化、80年代はハイテク産業育成といった過程を辿ります。著者は経済発展の要因について、?肥沃な土地と勤勉な住民、?日本から受け継いだ「遺産」、?米国の援助と日本の借款供与、?国民党政権の危機意識、?文化大革命の影響、?外国資本の導入、等々を挙げています。そして、台湾の産業においては日本からの下請け構造が構築され、部品や原料を日本から輸入しているため、台湾の輸出が増えるほど日本からの輸入が増えるため、台湾が輸出で得た貿易黒字の大半は対日貿易赤字を埋める構造となっていると著者は指摘します。

 民主化も急速に進展します。80年代に入ると民進党が結成され、87年には38年間続いた戒厳令も解除されます。そして、88年には蒋経国の突然の死去に伴い、副総理の李登輝が総統に昇格することで、台湾史上初めて台湾人が国家元首の地位に就きました。92年には台湾史上初めての総選挙が実施されます。

 本書はだいたいこの辺りの時代で叙述が終わっています。

 台湾は日本と距離的にも近く、心理的にも親日であることは良く知られていますが、その割にはその歴史を我々はあまりよく理解していないように思います。日本は台湾への進撃によって多くの犠牲を強いていますが、他方で台湾の教育レベルの向上やインフラ整備にも力を入れ、その遺産が今日の台湾にも引き継がれています。とりわけ、教師のレベルが高かったことが今日の親日感情にもつながっているという指摘は大変ハッとさせられるものでした。

 ただ、結果的に日本統治時代の恩恵が今の台湾にも継続されているとしても、それは決して慈善的性格だったわけではなく、あくまで植民地経営的性格だったという点を指摘することを、著者は忘れていません。だから、日本が台湾に対して良いことをしてあげたなどという言動はやはり慎むべきでしょう。それは、あくまで歴史の中の帰結に過ぎないわけです。

 それにしても、同じ漢族系でも本省人外省人という区分がある社会というのは我々には想像できません。普段はあまり見えない部分ですが、選挙になると国民党と民進党に分かれて激しい対立が繰り広げられることから見ても、やはりこの対立は根深く社会の根底に横たわっているということなのでしょう。

 そういう複雑な社会構造の上に、台湾人の親日感情も芽生えているのだということを、我々は忘れてはいけないと思います。