- 作者: 川北稔
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/10/16
- メディア: 新書
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著者はまずイギリスにおける都市化の進展構造について論じます。そして、イギリスのライフサイクルがロンドンに若者たちが集まってきやすい構造になっていたと述べています。すなわち、イギリス社会は早い時期から単婚核家族であり、晩婚の社会であったことが、若者たちをロンドンに向かわせ、流動性の高い社会を形成していたというわけです。ロンドンに人が集まれば、匿名の社会ができ、そこでは人は身なりで判断されることになりますので、ファッションの世界が生まれてきます。そこでは、ぜいたくが追求され、国民的なマーケットが生まれます。そして、社交庭園やコーヒーショップを舞台にした社交が生まれます。こうして都市化によって“消費”が盛んになったことが、経済の成長を促したわけです。
著者は“成長パラノイア”の起源について論じている部分は大変興味深いです。これは著者の次のような近代感に基づくものです。
「私の考え方では、近代化の過程は、欲しいものがたくさんあり、それを消費していると、ステイタスも上がり、労働意欲も高まっていくという筋道をたどると見ています。」
今では多くの人は、高い給料をもらえるのならますます働いて生活を良くしようと考えがちですが、近代以前の人々は必ずしもそうではなく、多くもらえるならむしろあまり働かないといったような発想があったのです。だから、労働者を怠けさせないためには、賃金を低く抑えるべきといった論調が普通だったのですが、それが近代に入ると、労働の報酬が高いことが人間の勤勉を増進するというアダム・スミスのような思想が主流になってきます。つまり、近代に入ると、賃金の上昇分を消費の拡大に向け始めた労働者の姿が見えてくるのです。
著者の主張で興味深いのは、政治算術家たちが人口の変動や趨勢を時系列的に数字を並べた数表を作ったことが、経済成長の概念と表裏一体だと述べている点です。政治算術家たちはなぜこんな数表を作ったのか?当時は人口こそが国力の源泉であり、人口の趨勢は大きな関心の的だったからです。この指摘がどれほど信憑性があるのかについて論じる能力は私にはありませんが、一つの興味深い見方であることは間違いありません。
そして、本書の一番の神髄は、産業革命の捉え方にあります。それは、産業革命の背景を需要から捉える考え方です。
「生活文化に大きな変化がなければ、産業革命は起こらなかっただろう、と私は思います。」
というのが著者の主張です。つまり、生産面の技術革新だけで産業革命の背景と捉えるのではなく、生産は需要がないと展開しないという点をもっと重視すべきという考え方です。
こうした視点から眺めると、次のような捉え方ができます。イギリスではかつて毛織物が主流でしたが、海外の綿織物が普及するようになり、イギリスの生活は大きく変化します。当初はインドから輸入されていた綿織物でしたが、イギリス国内での需要が急速に増えてくると、それをイギリス国内で生産しようという発想が出て来ます。そこに、アークライトの水力紡績機が普及していくのです。
「イギリス産業革命には、イギリス人の生活のアジア化が前提にあったのです。」
生活様式の変化が産業革命の前提にあったというのは、案外見落とされている視点かもしれません。
以上のように、本書は産業革命に対する見方を大きく変えるような重要な視点が盛り込まれています。
著者の思想の背景にあるのは、ヴェルナー・ゾンバルトの消費感です。ゾンバルトは、自由恋愛の世界において、異性に好かれるために着飾りたいという動機で一生懸命働くことが、資本主義の発達に寄与したのだという主張します。つまり、ウェーバーのような勤労意識の面ではなく、あくまで消費面で資本主義の起源を捉える捉え方です。
そしてもう一つの著者の思想に大きな影響を与えているのは、ウォーラースティンの世界システム論でしょう。それは、近代世界システムは中核と周辺の格差が一つのシステムに組み込まれると、そこに支配−従属の関係が生じ、逆に差異化していくという説明です。
この2つの視点から、本書では大変ユニークな産業革命感、資本主義感を醸成しています。
このように消費の視点で歴史を考えると、私たちの生きている近代世界の特異性が浮き彫りになってきます。我々が進歩と考えているものは、実は我々の消費意欲によって支えられているのだということが認識されます。政府の政策は経済成長を追求するものですが、それは我々の消費意欲をより一層引き延ばしていこうということにほかなりません。それでいいのだろうか?それで本当に我々は幸せになれるのだろうか?という疑問がすかさず頭に浮かんできます。
これまでどおりの近代世界の延長で考えるのであれば、我々がますます旺盛な消費を追求すべきということになるのでしょうが、本書を読むとどうもそれはちょっと違うなという気がしてしまいます。
本書ではイギリスの衰退論についても言及されていますが、そもそも衰退とは一体何なのか?衰退は悪いことなのか?といった根本的な疑問を投げかけています。
「少し考えてみると、たとえば一六世紀のヴェネツィアは非常に繁栄していたけれども、一七世紀には衰退した。ヴェネツィア経済の衰退を扱った本もありますが、衰退してどうなったのか、一七世紀のヴェネツィア人は一六世紀のヴェネツィア人より不幸であったのか。そこのところまでは議論がなされていません。
近世の初頭にスペインやポルトガルは対外発展をしますが、やがてフランス・オランダ・イギリスに抜かれていく、と一般に考えられています。しかし、抜かれてしまったスペインやポルトガルの人びとは不幸になったかというと、不幸にはなっていないし、昔の中世の状態に戻ったかというと、それもないわけです。
だからわれわれにとって問題なのは、成長パラノイアということであって、俗に衰退と言われているものはそれほど悲惨なことではない、というのが長年歴史研究に携わってきた私の結論のひとつです。」
著者のこの指摘に私も同感です。今欧州の経済危機が叫ばれていますが、では欧州の人々が不幸かどうかといえば、決してそんなことはなく、イタリア人だってスペイン人だって陽気に楽しくおいしい食事を取りながら生活しているわけです。
成熟した資本主義社会をこれから我々はどのように生き抜いていくべきか、どのような制度設計をしていくべきかどうかを考える上で、大変興味深い視点を提供してくれた本でした。